第13回/満たされて感覚が鈍ること
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インターネットでたくさんの方の人生を見ていると、この人は結婚して子供ができてから「満たされているな」と感じるときがあります。決して悪いことではないので、先程の文章はいっさい皮肉ではありません。人は幸せに向かって進むべきだ。
その反面、やはり幸せである人に対して興味が薄くなっていくのも本心です。「家庭的な幸せ」って、同じく暖かな家庭に居る状態でしか共感できないじゃないですか。他人の家の子供や一般的なペット、料理などの写真を見て、 ( ´_ゝ`)フーン以上の感想を持った経験ないですもん。
そういった機微の判断力が落ちるのはとても怖い。他人の赤子の顔なんてどれも同じにしか見えないのだから、それに対しての「かわいい」って大半が社交辞令で、写真を見せている方も、きっと昔は面倒くさい上司から子供との旅行の写真とか見せられた際に、内心で「興味ねぇ〜!!!」と叫んだことでしょう。いや、もしかしたら、他人の子供の写真を見るのがいつどんなときでも大好き!だった可能性ありますけど。だとすれば自分と感性が違いすぎて怖いぜ。
あまりに幸福すぎて、自身の幸せを他人と共有することで相手も喜ぶと錯覚しているのではないか。そこまでいった人間と自分が正常なコミュニケーションをできると思えない。幸せであることに罪はない。でも、そんな相手へ話を合わせられたり、興味を持てたりするかはまったくもって別。残念がら、脳内で「幸福な人」のフォルダーに入れてしまうのは仕方がない。
いつか自分が、その状態になる可能性だってある。素敵な恋人。暖かな自宅。笑顔の子どもたち。いろんな苦難も待ち構えているけれど、そんなトラブルも含めて愉快で円満な日々。そうなった僕を、今の僕が見て「面白い人だな」と認識するでしょうか? さらには、そんな僕が「かわいいでしょ?」と、子供の寝顔なんて見せてきたらどう感じるか。悲しくなってしまうでしょうね。そんなことより、もっと相手が興味を持ってくれるコミュニケーションを選択する能力まで、寂しさとともに失くしてしまったのかと。
歪んだ若者が大人を信用してくれる条件の一つとして、「相手が寂しさを背負っているか」は重要であると思う。家庭を持っていてもどこか哀愁のある大人も少なからず存在する。きっと、生まれ持った悲しみを忘れていない人だ。自分が寂しさを忘れていないのだから、寂しい若者に対して、きちんと話を聞いてやることができる。歪んだ若者の視点では、「幸福で正しい大人による説教」が最も苛立つ。正論で解決できない問題を抱えているから悩んでいるのに、幸せすぎて感覚が鈍った大人は、正しいことしか言ってこない。
正しいこと・綺麗事で喋るってことは、とても楽な道です。なぜなら間違っていないのだから。言うだけ得。年齢を重ねるに連れてどんどん発言の責任が重くなっていくのですから、できる限りローリスクな綺麗事トークを選択するようになる。しかし、果たしてクラスの悪ガキたちが、学校の先生からの指導を真に受けた瞬間を見たことありますか? あれは「こういうことをする/言う」と叱られると学習しただけであって、悪いことをしてしまったから心を入れ替えようといった殊勝な反省ではない。とりあえず「教師」と「生徒」という役割を互いがはたしただけ。真に相手に向かい合っているのならば、そんな簡単な話で解決しないと思う。子供の頃、自身でそれを理解していたはずなのに、一般的な幸福に近づくたびに、そんなことも忘れてしまう。
それが悲しくて、でもどうしようもなさそうで落ち込む夜があります。
【ねんどろいどマリィとポケカマリィ】
マリィ好き。オーケンとマンソンを足して割ったようなお兄ちゃんは、もっと好き。後ろのポケモンカードが高騰しすぎて怖くなってきました。もちろん売らないけれど、家にあるオタクグッズが勝手に価値が高くなり続けていくのはすごい。