『さみだれ』評・縄田一男

文字数 973文字

血みどろ博徒の哀しみ
(*小説宝石2021年10月号掲載)

『さみだれ』矢野隆(徳間書店)

 御存じ、保下田の久六殺しから金比羅代参、そして石松の仇討ちとくれば、時代小説ファンなら誰でも心得ている清水の次郎長の一代記だ。ところが、ひょんなことから次郎長の客分となった江戸は駒込生まれの流れ者、人呼んで皐月雨の晋八を主人公とした本書は、類書とはまったく違う作風の一巻となっている。


 何しろこの晋八、作中でも「抜きたい」「斬りたい」「殺したい」とばかりに、とにかく人を斬るのが好きで好きでたまらない。全編凄まじいばかりの血みどろスプラッター描写が炸裂する、呪われた一巻となった。


 こうした作品自体、規格外の代物なので、肝心の親分、次郎長も「俺ぁ争い事が苦手で痛ぇことも嫌ぇだ。だから望んで喧嘩をする気はさらさらねえ」とうそぶく始末。


 が、この長篇の面白さはこれらの趣向に止どまってはいない。主人公の特異さ、脇役の奇矯さばかりでなく、この次郎長の性格設定は、ラストで主人公を呑み込んでいく博徒の致し方なさへの伏線とも見て取れるのだ。伏線といえば、作中に示されている何人かの人物の述懐といい、この一巻は、一見、力まかせで描かれているようで、実は悪魔的な計算が行き届いているのだ、といえよう。


 その意味でラストで晋八が浮かべる笑いの何と哀しいことか―。


 結末に向かっていくに連れ、本書は血みどろの博徒物語から誰にも受け入れられなかった男の淋しい物語へと転じていく。作中にどれほどの血がながれていようとも、だ。従って、幾度も繰り返される「晋八。お前はいったい何者なんだ」という問いに気付いていないのは実は本人だけなのである。

訳者の愛あふれる珠玉の怪奇小説集

『恐怖 アーサー・マッケン傑作集』アーサー・マッケン著 平井呈一訳(創元推理文庫)

 怪奇小説ファンにはたまらない大部の一冊である。平井呈一翁訳によるアーサー・マッケンの傑作集―翁はかつて牧神社から全六巻本の『アーサー・マッケン作品集成』を訳出されていたが、その版も絶えて久しい。


 今回、初期の名品として知られる「パンの大神」「赤い手」「白魔」をはじめとして、翁いわく、人間の魂を抜き出して見せた表題作など、その訳文は作家への深い愛情で裏打ちされており、惜しむが如くページを繰らざるを得ない名作集となっている。

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