『香君』上下巻 評・瀧井朝世

文字数 1,018文字

奇跡の稲の謎を追う少女
(*小説宝石2022年5月号掲載)

『香君』上下巻 上橋菜穂子(文藝春秋)

回緻密に構築されたファンタジー世界で読者を魅了する上橋菜穂子。本屋大賞を受賞した『鹿の王』ではウィルスや医療といった題材が扱われたように、実社会の生活に繋がるような要素が盛り込まれるのが作品の特徴だ。新作『香君』で重要なモチーフとなるのは植物、そして農業。


 奇跡の稲と呼ばれる、丈夫で育てやすいオアレ稲の栽培で発展を遂げてきたウマール帝国。人々の心の拠り所となっているのは、香りで万象を知るとされる〈香君〉の存在だ。ある時、藩王国を訪れた視察官の青年マシュウの目に留まったのは、特殊な嗅覚を持つ少女、アイシャ。命の危険にさらされている彼女を救ったマシュウは、そのまま帝都へと連れていく。実は彼にはアイシャの能力を必要とする秘密がある。


 その頃、一部の地域でオアレ稲に害虫が見つかる。帝国の穀物生産はこの稲に依存しているため、もし収穫に影響があった場合、国は食糧危機を迎え、対外的にも大打撃を受けてしまう。アイシャは嗅覚を駆使して植物の声に耳を傾け、害虫の拡散を阻止しようと奔走する。しかし壁となるのは謎に次ぐ謎、陰謀と思惑、そして揺れ動く民衆心理。この、人々の心理がリアルに描かれるのが上橋作品の醍醐味のひとつ。たとえば突然、害虫がやってくるから今すぐオアレ稲を焼けと命令されても、現在何の被害もない農地の人々が素直に従うわけがない。その時にどう説得するのか。


 自然の生態系の合理性と不可思議さを同時に味わえるのも魅力。その一部にすぎない人間がすべてをコントロールできるわけはない。そのなかで、いかに生きるか。今回もまた圧倒的な力強さで、読む側にも活力を与えてくれる長篇だ。

化粧品王となった男、花街を生き抜く女

『コスメの王様』高殿 円(小学館)

 明治期の神戸。家族に安い値段で売られて花街にやってきた少女、ハナは、家族のため進学を諦めて商店で働く少年、利一に出会う。少しずつ成長し社会に馴染んでいくうちに、勤勉な利一は独立して独自の商売を開始。鉛の入っていない水白粉の販売や粉石鹸の開発などを手掛け、宣伝方法にも工夫を凝らして成功をおさめていく。実在した〝東洋の化粧品王〟をモデルにした一代記である。それだけでなく、架空の芸妓を登場させたことで、あの時代を自分の力で生き抜こうとした男性だけでなく、女性の姿も浮かび上がらせている点が秀逸だ。

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

背景色
  • 生成り
  • 水色