『沙林 偽りの王国』評・東 えりか

文字数 1,039文字

オウム事件を描いたノンフィクションノベル
(*小説宝石2021年6月号掲載)

『沙林 偽りの王国』帚木蓬生(新潮社)

 一九九五年三月二十日の朝、あちこちの地下鉄で一斉に事件が起こり大混乱となった。後の「地下鉄サリン事件」といわれた前代未聞の毒ガス散布テロだ。


 この事件以前からきな臭かった「オウム真理教」関係事件が、ここから一気に噴出する。教団関係者の連日のテレビ出演、識者のコメント、山梨県上九一色村(当時)からの中継、カナリアを先頭にした強制捜査、信者たちの逮捕、麻原彰晃の捜索、その後明らかになる殺人と国家転覆計画。


 本書は九州大学医学部衛生学教室教授、沢井直尚の視点で、オウム真理教の一連の事件を時系列で俯瞰したノンフィクションノベルである。松本サリン事件、地下鉄サリン事件、坂本弁護士一家殺害事件など、裁判や当事者の著作などから事実を細かくつなげていく。


 沢井直尚のモデルとなったのは九州大学名誉教授の井上尚英氏。沢井は和歌山カレー毒物殺人事件を題材に取った『悲素』(新潮文庫)の主人公でもある。著者も医師なので、薬物関係の専門的記述は詳細を極める。


 26年以上前の事件で私の記憶も曖昧になっている。あらためて事件の流れを読み直すと「こんなことが行われていたのか」と驚かされ、戦慄した。とても現実に起こった事件とは思えなくなっている。


 麻原彰晃とは何者だったのか。なぜ理系大学出身の優秀な学者が洗脳されたのか、このような集団が再び現れないという保証はどこにあるのか。


 著者は「オウム真理教の全貌を明らかにしなければならない」と記している。教団だけでなく警察やメディアへも静かな怒りを突き付けた作品だ。

日本独自のコロナ対策に挑んだ専門家たち

『分水嶺 ドキュメント コロナ対策専門家会議』河合香織(岩波書店)

 新型コロナウイルス感染症のパンデミックが始まって一年が経った。初期の対応に大きな影響力を持ったのは「新型コロナウイルス感染症対策専門家会議」だ。


『分水嶺』はこの会議の発足から解散までの約四か月半を、関係者への丁寧な取材によって明らかにしていく。彼らの待遇、政府との軋轢、報道の不公平さ、国民の反応などに混乱させられながら、百年に一度の疫病に果敢に挑む専門家たちには頭が下がる。


 だがあの頃はまだ「我慢」に余裕があったように思う。いまは事態の先行きが見えない中で不安だけが募る。ワクチンですべてが解決するのか。元の生活に戻れるのか。改めて考えるための指針となる一冊だ。

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