『邪教の子』評・円堂都司昭
文字数 1,026文字
『邪教の子』澤村伊智(文藝春秋)
慧斗は、自分と同じく十一歳の女子である茜の境遇に心を痛めていた。新興宗教に入れこむ母親は、車椅子に乗る茜を学校に通わせず、家族以外と接触させない。それなのに寄付を募るための道具として娘を連れ歩くのだ。茜が母に叩かれるのを目撃した慧斗は、囚われの身の彼女を同級生とともに助けだそうとする。
澤村伊智『邪教の子』は、そうした状況から始まる。この説明では、カルトにかぶれた親から娘を普通の世界へ奪還しようとする話に思われるだろう。だが、慧斗のいるところも普通ではなさそうだと、読者にも少しずつわかってくる。
茜を心配する慧斗に対し、学校の先生は彼女の家族について「下らない人種だからよ」といい放ち、母は「あの子が助けを必要としているかどうかなんて、わたしたちには分からないわ」と返す。助けたがる慧斗を父は「幸福の押し売りだよ」といって諭そうとするのだ。彼らには茜への同情がみられないし、なにかがおかしい。読んでいてじわじわ不安になっていく。しかし、茜の救出劇は物語のまだ前段にすぎない。
慧斗たちが住んでいるのは、光明が丘というニュータウンだと設定されている。「古い文化を打ち壊して作った街だ」と話すこの場所の会長・権藤尚人は、かつての村で祀られていた阿蝦摩神のことを調べ、祭りを復活させようとしていた。一方、先の救出劇から三十年くらい後の時代を描く物語の後段では、建物や道路が老朽化し、高齢化が進んだ「ニュータウン計画の綻び」に触れられている。いったん「古い文化」がなくなったニュータウンの隙間になにが広がったのか。広がったものだけでなく、寒々しい隙間があること自体が怖い。
『「ボヘミアン・ラプソディ」の謎を解く』菅原裕子(光文社新書)