消えゆく記憶と謎の男の正体『わたしが消える』評・西上心太

文字数 1,058文字

※2020年小説宝石11月号より

『わたしが消える』佐野広実(講談社)本体1800円+税

 交通事故がきっかけで、藤巻智彦(ふじまきともひこ)は自分に軽度認知障碍の症状が出ていることを知る。そんなおり、福祉施設で実習中の娘から、認知症の入所者の身元調査を依頼される。その老人は施設の入り口に置き去りにされていたため、「門前(もんぜん)さん」と呼ばれていた。幸運も手伝い、藤巻は「門前さん」を遺棄した人物を発見し、町田幸二(まちだこうじ)という名前も判明した。だがそれは謎の始まりに過ぎなかった。彼の持ち物にあった町田名義の古い免許証の写真は別人で、写真が剥がされた複数のパスポートや学生証などは全部別々の名義になっていたのだ。


 藤巻はかつて県警捜査二課の刑事だったが、政治がらみの捜査が原因で警察を追われ、妻と離婚していた。それからの二十年、藤巻はマンションの管理人として働きながら、世間に背を向けて生きてきた。最近まで没交渉だった娘の依頼を引き受けたのも、「門前さん」に未来の自分を見たからだ。それだけでなく、藤巻は「門前さん」の身元を追っていくうちに、彼が何者でもなく過ごしてきた長い人生を知ることになる。


 タイトルの通り、「わたしが消える」恐怖を抱えながら、自分の人生、そして謎の男の人生の空白を埋めようとする物語である。元刑事とはいえ、認知症の老人の過去を探るという畑違いの捜査という小さな話が、殺人や拉致などの暴力がからんだ大きな話になっていくのだが、この流れが実に自然だ。軽度認知障碍という主人公の設定も単なる趣向を超え、その苦しみや葛藤(かつとう)がストーリーと溶けあっている。年齢を重ねた読者にとっては、実に身につまされる内容なのだ。選評から読み取れるような欠点も、大きく改善されており、歴代の江戸川乱歩(えどがわらんぽ)賞受賞作の中でも、強く印象に残る作品となった。

大好評クライムノベルの前日譚

『煉獄の獅子たち』深町秋生(KADOKAWA)本体1700円+税

 会長の死去により、関東最大の暴力団・東鞘会は跡目を継いだ神津組の神津太一と、前会長の実子・氏家勝一が率いる和鞘連合に分裂し、激しい全面抗争が勃発する。和鞘連合は不利な状況に陥るが、氏家は子分の織内に命じ、神津暗殺を図る。


 ヤクザの抗争と、警察内部の対立。その両方に大物政治家の秘密と去就がからむ。そのため事態が複雑化し、先が読めない展開が楽しめる。大好評だった『地獄の犬たち』の前日譚にあたる、血と暴力と陰謀にまみれた必読のクライムノベルだ。

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