第36話 『願い雪』担当編集者の豹変ぶりに、さすがの日向も戸惑う

文字数 2,656文字

『なるほど、そうだったんですね! でも、それまで暗黒小説の分野で実績のあった日向さんから、純愛小説を書きたいと言われたときには戸惑いませんでしたか?』
『正直、編集部、営業部、販売部のほぼ全員が大反対でした。どうして数字の読める黒日向ではなく、未知の白日向で勝負するんだ? と』
 池内が、渋い表情を作りながら言った。
 次第に緊張が解けてきたようだ。
『黒日向、白日向ってなんですか?』
 風鈴が首を傾(かし)げた。
『あ、今回「願い雪」が大ヒットしたおかげで、読者の方から暗黒小説系は黒日向、純愛小説系は白日向って呼ばれるようになったんですよ』
『面白いですね! それで、白日向を出したいという日向さんを、池内編集長はどういうふうに説得したんですか?』
『説得なんてとんでもない。日向誠の初の純愛小説に、インスピレーションが湧きました。「願い雪」が、第二次恋愛小説黄金期の扉を開けるかもしれないって。リスクは高いかもしれませんが、勝負してみましょう! と僕は日向さんの背中を押しました』
 池内が得意げに言った。

「いまの話、本当ですか?」
 磯川が日向に顔を向けた。
「記憶にございません」
 日向は苦笑した。

『社内の人達は大反対していたんですよね? どう説得したんですか?』
 風鈴が身を乗り出した。
『営業部や販売部には、大コケしたら僕が責任を取ると啖呵(たんか)を切りましたよ。不安がなかったかと言えば噓(うそ)になりますが、それ以上にワクワクしました。僕は昔から、石橋を叩くよりもまずは渡ってしまえというタイプでした。安定より刺激を選ぶ、根っからの冒険家なんですよ』
 緊張でガチガチになっていた人間とは別人のように、池内は饒舌(じょうぜつ)になっていた。

「すっかり池内さんの独演会になってしまいましたね」
 磯川が柔和(にゅうわ)に笑いながら言った。
「でも、この人が『願い雪』ば書いたっていうほうが似合っとるばい」
 しばらくおとなしくしていた椛の毒舌が再開した。
 日向の胸は痛んだ。
胸の痛みは、椛の言葉のせいではない。
 日向は、池内の「独演会」を穏やかな表情で見ている磯川の横顔をみつめた。
 ノックの音に続き、半開きのドアからチーフマネージャーの桐島真理(きりしままり)が顔を覗かせた。
「お疲れ様です。社長、そろそろ出ます。椛、行くわよ」
 真理は日向と磯川に挨拶すると、椛を促した。
 椛の出演が決まった二時間ドラマの衣装合わせが、世田谷のスタジオで行われる。
「じゃあ、磯川さん。ウチのガングロ中卒作家ば、よろしくお願いします」
 椛は彼女らしい毒のあるセリフを残し、真理のあとに続いた。
「彼女は、五年前となにも変わらないですね。いい意味で、芸能人っぽくありません」
 磯川が、微笑(ほほえ)ましい顔で椛を見送りながら言った。
「それが、よくないんだよね。芸能界は、他人を押し退(の)けてでもチャンスを摑(つか)もうとするような子ばかりだから。あいつも、もっと欲を出さないと」
 日向はため息を吐(つ)いた。
「欲ですか……」
 磯川が呟いた。
「欲と言えば、どうして『樹川書店』が『願い雪』の出版を渋っていたときに、俺が磯川さんのところで出したいという申し出を断ったの?」
 日向は、二年間ずっと心に引っかかっていたことを口にした。
「そのときも言いましたが、『願い雪』はウチより『樹川書店』で出したほうが十倍売れました。あそこは、恋愛小説好きの女性読者がついてますからね。現に、発売二ヶ月で三十万部を突破していますし。ウチで出していれば、とてもその部数にまでは達していなかったでしょう。これでよかったんですよ」
 磯川が、にこやかな表情で言った。
「もしそうだとしても、椛の話じゃないけど磯川さんには欲はないの?」
 日向は訊ねた。
「椛ちゃんは、なぜ『日向プロ』にいると思います?」
 唐突に、磯川が質問を返してきた。
「え? なぜって……改めて考えたことはないな」
 磯川に言ったとおり、椛が日向のもとにいる理由を考えたことはなかった。
「僕が思うには、日向さんといると面白いからだと思います。だから、彼女の中には売れるとか売れないとかよりも、『日向プロ』で仕事をしていると楽しいというのが、所属し続ける一番の理由だと思います。僕も同じです。もちろん、日向さんの作品でベストセラーを出せたら嬉しいです。でも、それ以前に僕は日向作品が好きなんですよ。良くも悪くもセオリーを無視した……いや、壊すというか、とにかく、予測不能な日向さんと仕事をしているのが楽しくて。だから僕は、自分の功績よりも日向作品が一番評価される出版社で刊行してほしいと思っているんですよ。日向さんがどこで成功しても、それは僕の喜びでもあるんです」
 磯川の、レンズ越しの眼が柔和に細められた。
「磯川さん、ありがとう……」
 日向の胸が震えた――涙腺が震えた。
 本当に、自分はラッキーな男だ。
 磯川のような懐の深い男のもとで、作家デビューできたのだから。
「礼を言うのは僕のほうですよ。これからも、僕を楽しませてくださいね。さて、ビールでも飲みながら、新作の打ち合わせをしましょうか?」
 磯川は言うとテレビを消し、日向を促した。

                    10

「赤坂プレミアムホテル」の「飛翔の間」で行われている立食パーティーには、出版社の編集者や作家の姿が目立った。
 映画やドラマで主役を張っている男優や女優、出版社の社長や役員の姿も多くみられた。
「島倉謙(しまくらけん)さんに岩永百合(いわながゆり)さん……この顔触れは凄いな。さすがは林田(はやしだ)先生だ」
 日向はパーティーに駆けつけた錚々(そうそう)たる顔触れに、感嘆のため息を吐いた。
「林田さんは、人柄も素晴らしい方ですからね」
 磯川が、壇上で出版関係者や原作映画に出演歴のある役者達にたいして感謝の言葉を並べている林田を、小型のビデオカメラで撮影しながら言った。
「林田誠二(せいじ)著作五百冊記念パーティー」に出席したのは、磯川の誘いだった。
 日向は、作家デビューして五年で初めて文壇のパーティーに顔を出した。
 ドラマや映画の打ち上げは数多く経験してきたが、この手の集まりは敬遠していた。
 もともと、文壇というものに興味がなかった……というよりも苦手だった。

(次回につづく)

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