第22話 『フィクサー貴族』が未来を変えるとは、日向も想像できなかった

文字数 3,447文字



「日文社」に向かうアルファードのミドルシートで日向は、『フィクサー貴族』のノベルスを開いていた。
『フィクサー貴族』は『阿鼻叫喚』に続く二作目で、闇金融の帝王と畏怖(いふ)される若く怜悧(れいり)なヤクザ……海東(かいとう)が武力と知力のかぎりを尽くして、闇社会のフィクサーへと伸し上がる物語だ。
 海東は目的を果たすためなら手段を選ばず、逆らう者、行く手を阻もうとする者は誰であろうと抹殺する冷血漢だった。
 
『おい……いったいなにをするつもりだ? 俺にこんなことしたら、ただじゃ済まないぞ! 俺の親父が誰だか知っていながら、さらったんだろうな?』
 海東の企業舎弟が経営するSMクラブ――天井に取りつけられたチェーン付きの手枷(てかせ)に両手首を拘束された花崎(はなさき)は、懸命に虚勢を張った。
『関東最大手の広域組織、「陣流会(じんりゅうかい)」の会長だ』
 海東は抑揚のない口調で言いながら、無表情に花崎を見据えた。
『わかってるなら、早く解放しろよ! いまなら、親父には黙っておいてやるから』
 花崎が強気に言った。
『なにか勘違いしてないか? お前が「陣流会」会長の息子だからさらったんだ』
 海東は片側の口角を吊り上げた。
『な、なんだって……』
 花崎の顔が瞬時に強張(こわば)った。
 大事な一人息子を屈辱塗(まみ)れにすれば、会長の大林は怒髪天を衝(つ)くような形相で海東組に刺客を送り込んでくるだろう。
 大林の長男をさらったのは、抗争のきっかけ……大義名分を得るためだった。
『連れてこい』
 海東は組員に命じた。
 ほどなくして、組員がグレート・デンを連れて戻ってきた。
「犬界のアポロ神」と呼ばれるグレート・デンは世界一、二を争う体高を誇り、立ち上がると二メートル近くになる超大型犬だ。
『な、なんだよ……その犬は!?』
 グレート・デンを眼にした花崎の顔が蒼白(そうはく)になった。
『脱がせ』
 海東に命じられた二人の組員が、花咲のベルトのバックルに手をかけた。
『なにするんだ! や、やめろ!』
 花崎は必死に抵抗したが、あっという間にズボンとブリーフを脱がされてしまった。
『さあ、ショータイムの始まりだ』
 海東が言うと、二人の組員が花崎の左右の足をそれぞれ抱え込んだ――股を開かせた。
 グレート・デンを連れた組員が花崎の肛門にローションを塗り始めた。 
『おいっ、やめろっ……なにやってんだ! やめろよ……やめろって言ってるだろっ。なあっ、おいっ、ふざけんなよ! やめろよ!」
 両手、両足を拘束されている花崎は逃れることができなかった。

「主人公が犬にレイプされるって……。変態とは思っとったばってん、社長は私の想像ば超えたド変態ばい。あ~怖か~。キモか~」
 隣に座る椛(もみじ)が、己の体を抱き締め大袈裟(おおげさ)に顔をしかめてみせた。
 日向は未成年の所属タレントには著書を読むことを禁じているが、『フィクサー貴族』では主要登場人物が大型犬にレイプされるという衝撃的な描写が話題になり、数多くの書評家が雑誌や新聞で取り上げたので椛の眼にも入ってしまったのだ。

 デビュー作『阿鼻叫喚』を超える衝撃作!
 この小説をR指定にしなくてもいいのか!?
 日向誠の辞書にモラルという文字はないのだろうか?
 私が読んできた暗黒小説史上、『フィクサー貴族』は最も過激で救いようのない作品だ。
 日向作品に比べれば、これまでのノワール作品がファンタジーに思えてしまう。
 本作の登場人物のひとでなしぶりとろくでなしぶりは、デビュー作を遥かに超えた。

 賛否両論の書評だったが、発売前に様々な媒体に取り上げられたことで『フィクサー貴族』はロケットスタートを切ることができた。
 レギュラーを十数本抱える、毒舌が売りの人気芸人が、日向誠は現代文学の鬼才、とゴールデンタイムのバラエティ番組でコメントしてくれたおかげで、『フィクサー貴族』は一気に広まった。
 発売一ヶ月の「与那国屋書店」の月刊ベストセラーランキングでは、風間玲の『六本木ギャング』と東郷真一の『白狼の牙』に次いで三位に入っていた。
『阿鼻叫喚』の発売から一年が経っているので、上位の二人もそれぞれ新作がランクインしていた。
発売一ヶ月で『フィクサー貴族』は版を重ねて七万五千部に達し、同じ時期の実売が五万部だった『阿鼻叫喚』を超えていた。
だが、日向に満足感はなかった。
磯川の調べでは、発売月が同じ『六本木ギャング』が十五万部、一ヶ月早い『白狼の牙』が十四万部の実売らしい。
それぞれ、『フィクサー貴族』のほぼ倍の部数が売れているのだ。
「超大型犬に犯されるのは、主人公じゃなくて準主人公だ」
 日向は真面目な顔で訂正した。
「は? そこにこだわると? 人間が犬に犯される小説なんて書く作家は、社長みたいな変態しかおらんばい。恥ずかしくなかとね?」
 椛が呆(あき)れた口調で言った。
「ほかにない物語を書くから売れるんだよ。お前も、いま売れてる女優の真似じゃなくて自分のスタイルを確立しろよ」
 日向は涼しい顔で言った。
「なーにが自分のスタイルね! 変態に偉そうに言われたく……」
「到着したわよ」
 チーフマネージャーの真理が「中央テレビ」の前でアルファードを止め、椛の憎まれ口を遮(さえぎ)った。
 椛は先月から連続ドラマの撮影に入っていた。
 二十四時台の深夜ドラマの脇役だが、椛にとっては大チャンスだ。
 どんな大女優でも、脇役からスタートしているものだ。
「真理さんは?」
「私は社長を『日文社』に降ろしてから戻ってくるから、一階のカフェで待ってて」
 真理は言いながら、スライドドアを開けた。
「こぎゃん変態作家は電車で行かせて、未来の大女優ば……」
「ほらほら、未来の大女優さん、撮影頑張って!」
 日向は椛の背中を押して、車から降ろした。
 振り返った椛は日向に中指を突き立てると、正面玄関に向かって駆け出した。

 日向は文芸第三の編集部の前で足を止めた。
 今日は書店から頼まれたサイン本のために「日文社」を訪れたのだ。
 磯川との打ち合わせは、いつもカフェやミーティングルームばかりだったので、編集部に入るのは初めてだ。
 三十坪ほどの空間、三台が並び、向き合うスチールデスクの島が三つ、それぞれのデスクに積み上げられた書籍や原稿、たくさんのロッカー、吸い殻が溢れた灰皿……文芸第三部は、ドラマや漫画に出てくる編集部のイメージ通りに雑然としていた。
 ゲラをチェックする者、電話をかける者、パソコンのキーを叩く者……業務に没頭する編集者達は、来訪者に一人として気づいていなかった。
 日向は視線を巡らせた。
 磯川の姿は見当たらなかった。
「あの、お仕事中すみません。磯川さんはいらっしゃいますか?」
 日向は近くでゲラを読んでいた若い編集者に訊ねた。
「あの……どちら様でしょうか?」
 一瞬、編集者の顏に驚きの色が浮かんだのを日向は見逃さなかった。
 これまで文芸編集部に、金髪ガングロでメタリックグレーのスーツを着た男が訪れたことなどないのだろう。
「磯川さんが担当で、『阿鼻叫喚』と『フィクサー貴族』をこちらの社から出版している日向誠です」
「あ! お世話になってます! 磯川はすぐに戻ってきますので、こちらへどうぞ!」
 目の前の派手な男が自社で作品を書いている作家と知り、慌てて編集者が日向をフロアの奥へと促した。
「磯川の席です。こちらでお待ちください」
 編集者がキャスター付きのデスクチェアを日向に進めた。
「ありがとうございます」
 日向はデスクチェアに腰を下ろした。
 乱雑に積まれたゲラや資料が雪崩(なだ)れを起こしているデスクもあったが、磯川のデスクはすっきりしており、パソコンの横のブックスタンドには担当作家のものだろう書籍が整然と並べられていた。
 開いたゲラ……チェックの途中だったのだろう。
 ゲラは書き込まれた文字で真っ赤になっていた。
 日向はデスクチェアに座ったまま磯川のデスクに近づき、ゲラにチェックの入った赤字を視線で追った。

(次回につづく)

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