第54話 純文学作品の担当者に磯川との思い出を語る日向だが
文字数 2,967文字
『磯川さん、横浜の小さな絵本系の出版社にいるらしいよ』
『東郷さんの許しを得ただけじゃなくて担当者に指名されたのに、それを蹴るなんて変わり者の彼らしいね』
『しかも、編集長の椅子を蹴ったってさ』
『噓(うそ)! もったいない! だったら、僕にくれよ!』
『馬鹿か! 古着じゃないんだぞ』
新作の打ち合わせが終わり、日向が「日文社」近くのカフェでコーヒーを飲んでいたときに、偶然、近くの席にいた編集者らしき二人の会話が聞こえてきた。
二人とも文芸部の編集者だったが、日向はカウンターに座り背を向けていたので気づかれることはなかった。
「そうですか。優秀な編集者だったでしょうに、もったいないですね。ところで、その編集者の方はなぜ『日文社』を辞めたんですか?」
岸が訊ねてきた。
「私利私欲がないからかな」
日向は、遠い眼差しで言った。
「私利私欲がない……ですか。私も会ってみたかったです」
「磯川君に?」
「あ! 磯川さんですか?」
岸が声を弾(はず)ませた。
「え? 磯川君を知ってるの?」
「お会いしたことはありませんが、お噂(うわさ)はいろいろと聞いてます。長い物に巻かれず、気難しい性格で、出世にまったく興味がない方だと。でも、凄(すご)く優秀な方だとも」
「たしかに、権威とか名声とかに靡(なび)かない人だね。僕に文学賞を諦めさせてくれたのも、磯川君だよ」
「文学賞を諦めさせてくれたとは、どういう意味ですか?」
岸が、興味津々(しんしん)の表情で訊ねてきた。
「デビュー作の『阿鼻叫喚』を出すときに、彼から言われたんだよね。この過激で荒々しい文章では、売れるだろうけど文壇では評価されずに文学賞を取れないって。文壇に評価されなくてもいいから、俺はいまのままの作風で熱烈な読者を増やしたい……磯川君は、俺の思いを理解、尊重してくれたんだ。君も知っての通り、黒日向作品は差別用語や放送禁止用語のオンパレードだから、出版社にも相当な数のクレームが入ったと思うよ。いまの担当者が教えてくれてそれを初めて知ったんだけど、磯川君はクレームに対応したり上司を説き伏せたり、陰で全部やってくれてたんだよね」
日向の口元は、自然と綻んでいた。
「出版界初のR指定か、と噂された問題小説が誕生した背景には、そういう秘話があったのですね」
岸の顔が曇った。
「どうしたの?」
「いえ、いまの話を聞いて、編集者の本来あるべき姿というものを考えさせられてしまいました」
「編集者の本来あるべき姿?」
日向は、岸の言葉を鸚鵡(おうむ)返しにした。
「はい。自分が編集者になったばかりのときを振り返ると、希望とエネルギーに満ちていました。文学史に残るような小説を作る、妥協はしない、作家に媚(こ)びない……新人の頃の誓いをどれだけ守れているんだろうと考えてみると、虚(むな)しくなってきます」
岸が自嘲的(じちょうてき)に笑った。
「そんなことないよ。岸君は、既存の純文学の殻を破ろうとして、いろいろ挑戦してるじゃないか」
「それでも、妥協だらけですよ。『古都書房』の伝統を汚すような作品を作らないように、作家先生の世界観を尊重するように、新境地という大義名分のために大衆小説の要素を採り入れないように……すべて、上司に言われたことです。編集者は作家の手足だから脳みそになる必要はない、編集者は黒子に徹するべき、純文学は文章力や表現力の芸術性を重視するべきであり、利益を重視する大衆文学と一線を画すものである……すべて、作家さんに言われたことです。『古都書房』に入社して半年が経った頃には、新人の頃の意気込みはどこへやら、すっかり牙を抜かれていました。いまとなっては、最初から牙があったかさえも疑わしいんですけどね」
ふたたび、岸が自嘲的に笑った。
「でも、出版界初のR指定作家にオファーをかけてくれたじゃない」
日向は冗談めかして言った。
「日向先生の『願い雪』を読んだときに、思ったんです。あれだけ過激な暗黒小説を書いていた作家さんが、真逆の純愛小説を書くというチャレンジをしているのに、私はなにをしているんだって。それで、上司の反対を押し切って、日向さんにオファーをかけさせていただいたというわけです」
岸が、言葉を嚙みしめるように言った。
「やっぱり、上司は反対していたんだ……」
日向は肩を落として見せた。
「あ、いえ、そういうわけではなく……」
「冗談だよ、冗談。君は、文学に一番遠い小説を書く作家と言われている俺の作品を『古都書房』で出したんだから、十分に牙を持ってるじゃないか」
「磯川さんのように、最初から日向作品を受け入れ周囲と戦っていれば胸も張れるんですけどね。いま、磯川さんはなにをやってるんですか?」
岸が訊ねてきた。
日向は足元のバッグを膝に載せ、ファスナーを開けた。
絵本を取り出し、岸に差し出した。
「『翼のない鳥』……。これはなんでしょう?」
岸が訝(いぶか)しげな表情を日向に向けた。
「磯川君が作った絵本だよ。彼はいま、絵本専門の出版社の編集者なんだ」
「そうなんですね。磯川さんも、日向先生に負けず劣らず守備範囲が広いですね」
「そうなんだよ。奥付を見て」
「奥付ですか……十年前の本ですね。七十二刷!」
岸が珍しく大声を張り上げた。
「もちろん、小説みたいに五十万部、百万部ってわけにはいかないけど、絵本の世界は瞬発力より持久力が重要だから。絵本で育った子供が親になって、自分の子供に読んで聞かせて愛され続けてゆく。それが、絵本ってものだよね。磯川君の絵本も、二十年、三十年、四十年って愛され続けてゆくんだろうな」
日向は岸から絵本を受け取り、『翼のない鳥』の装丁をみつめた。
「お、こんなことしてる暇はない。サインを急がないと」
日向は油性ペンを手に取り、サインを再開した。
「さっき連絡があったんですけれど、百人以上並んでいるみたいです。さすが、日向先生ですね」
岸が日向を持ち上げた。
「リアルは何人?」
「え……」
日向の問いかけに、岸が困惑した表情になった。
「俺はずっと芸能プロやってきたから、サイン会とかの人集めに詳しいんだよ。プロデュースしてた地下アイドルに恥をかかせないために、サクラを集めたこともあるしね」
日向は、岸の顔色を窺(うかが)った。
「すみません。三十人ほど動員しました……」
岸はか細い声で言うと、項垂(うなだ)れた。
「作家の場合は芸能人と違って、本の売れ行きとサイン会の人数は比例しないから。読者は作家のファンというよりも、作品のファンだからさ。そう考えれば、七十人でも上出来だよ。作家のためを思ってやったことだとわかってるけど、俺にたいしてそういう気遣いは必要ないから。そんなことやってたら、真の意味での信頼関係を築けないしね」
日向は岸に片目を瞑(つむ)った。
「磯川さんみたいな編集者になりたいと言いながら、やっていることは真逆ですね。穴があったら入りたいというのは、こういう心境なんですね」
岸が苦笑した。
「まあ、それで喜ぶ作家も多いわけだから」
日向も岸に苦笑を返した。
(次回につづく)