第34話 恋愛小説のプロットを読み終えた編集者は逡巡するが――

文字数 3,270文字

 ミカエルは?
 今日は家でお留守番してるの。
 どうして? 三人で遊ばないの?
 突然、小雪が涙の溜まった瞳で優斗をみつめた。
 どうしたの?
 今日は、お兄ちゃんにお別れを言いにきたの。
 お別れ? どこかに行くの?
 うん、京都に引っ越すんだ。
 京都? どうして?
 叔父さんの仕事がうまくいかなくなって、お家にお金がなくなって、京都の叔母さんの親戚の家に行くことになったの。
 小雪が涙声で言った。
 そっか。小雪ちゃんに会えなくなるの、寂しくなるな。
 本当?
 もちろん、本当だよ。
 じゃあ、右手を出して。
 え?
 いいから、右手を出して。
 優斗は首を傾(かし)げながら右手を小雪に差し出した。
 小雪が優斗の薬指に、夕日を照り返すガラスの指輪を嵌(は)めた。
 九年後、私が二十歳になった年の今日、この公園のこのベンチにきて、これを嵌めて。
 小雪が真剣な眼差しで優斗を見つめ、お揃(そろ)いの指輪を手渡してきた。
 指輪を小雪ちゃんの指に嵌めるの?
 そう。お兄ちゃんがプロポーズして、私をお嫁さんにするの。

「まだ、そこまでしか書いてませんけど」
 池内が読み終わったのを見計らい、日向は言った。
「驚きました! 失礼ながら、『阿鼻叫喚』や『無間煉獄』を書いている作家さんと同じ方が書いたとは思えません! 文体も物語の世界観も登場人物も、別人が書いた作品のようです。本当に、日向さんが書いたんですよね?」
 冗談半分、本気半分といった様子で池内が訊ねてきた。
「もちろん、俺ですよ」
 日向は笑いながら言った。
 自分が池内でも、同じ質問をしたに違いない。
「同一人物が書いたとは思えないという驚きだけでなく、ほんの触りですがストーリー展開もグイグイと引き込まれました。あんなに生々しく残酷で非道な小説でベストセラー作品を連発してきた作家さんが、ド直球の純愛小説でもここまで僕の心を揺さぶりました。何度も言いますが、本当に驚きました。因みに、この先の展開はもうお考えですか?」
 池内が興味津々の表情で訊ねてきた。
「ざっくりとですが……二十歳になった小雪がシニア犬になったミカエルと九年後に待ち合わせ場所の公園に行ったときに、優斗は現れませんでした。優斗との約束を一途に覚えていた小雪は失意に打ちひしがれますが、一方で、小学生だった少女との約束を高校生だった優斗が忘れてしまっても仕方がないな、という気持ちもありました。しかし、優斗は約束を忘れていたわけではなかったんです。彼に思いを寄せていた看護師の沙織が、以前からカレンダーに印をつけて小雪との再会を楽しみにしていた優斗が待ち合わせ場所に行けないように、急患の犬を仕込んで妨害したんです」
 池内の上体が、乗り出してきた。
 物語に引き込まれているという言葉は、リップサービスではないようだった。
「それを知らない小雪は、美しい思い出のまま優斗のことを心に封印しようと決意します。帰り道、ミカエルが急に走り出しました。わけがわからずついて行った小雪は、通りの向かいに立つ動物病院から出てきた優斗を発見します。ミカエルが、優斗のもとに小雪を導いたんです。小雪が懐かしさのあまりに通りを渡ろうとしたときに、建物から出てきた若い女性が優斗の隣に並び親しげに話しかけました。小雪から見ても、お似合いの二人でした。なぜ、優斗が公園に現れなかったかを悟った小雪は、抵抗するミカエルを無理やり引っ張り立ち去りました。ミカエルにはわかっていました。小雪の初恋のお兄ちゃんは、いまでもあのときの少女のことを忘れてはいないことを……とまあ、こんな感じですね」
 日向がノートパソコンを閉じると、池内が大きく息を吐いた。
「日向作品の最高傑作になる可能性を感じました」
 池内がうわずる声音で言った。
「じゃあ、『樹川書店』の作品は『願い雪』でも大丈夫ですか?」
 日向は声を弾ませた。
「それはまだ、お約束できません」
 池内がうなだれた。
「どうしてですか? いま、日向作品の最高傑作になる可能性を感じると言ってくれたじゃないですか?」
 日向は肩透かしを食らった気分で言った。
「たしかにそう思いましたし、物語に魅力を感じました。ですが、最高傑作イコール売れるとはかぎらないのが、この世界の難しいところです」
「どういう意味ですか?」
「おそらく、ウチの営業部や販売部は書評家に絶賛される一万部の作品より、書評家に酷評される十万部の作品を求めるはずです。その意味で、初の恋愛小説を『樹川書店』で刊行するのは相当にハードルが高いと思います」
 池内が伏し目がちに言った。
「俺は、『願い雪』は最高傑作になるのと同時に、最高に売れる作品になるという自信があります。池内さん、日向誠に賭けてみませんか?」
 日向は池内の瞳を、思いを込めてみつめた。
「すみません。とにかく、いまは企画会議にかけるとしか言えません。そして、企画が通る可能性が低いということも……」
 池内が絞り出すような声で言うと、日向から眼を逸らした。
「わかりました」
 日向は席を立った。
「『願い雪』の企画が通らなかったら、ウチでは書いてもらえないということですか!?」
 池内も慌てて席を立った。
「いまは、『願い雪』のことしか頭にありません。とりあえず、考える時間をください。また、こちらから連絡します」
 一方的に言うと、日向は頭を下げてカフェを出た。
                  ☆
「どうしました? 店に入るなり一言も喋らないで、ずっと難しい顔をしてますよ」
青山の「エルミタージュ」――カウンターに並んで座る磯川が、ビールのタンブラーをみつめる日向に声をかけた。
「おい、どうしたんだよ? 黙(だんま)りを決め込んで、気味が悪いな」
 ポニーテールにしたシルバーヘア――カウンター越しに、大東が言った。
「こういうこと、たまにあるんですか?」
 黒ビールのタンブラーを傾けながら、磯川が大東に訊ねた。
「いや、真樹ちゃん……奥さんと別れたときも、こんなふうにはならなかったな」
 大東が言った。
「なあ、大東。俺が書く恋愛小説は、そんなに魅力がないか?」
 不意に、日向は大東に訊いた。
「なんだよ? 急に? ぶっちゃけ、お前が恋愛小説を書くイメージが湧かないな」
 大東が肩を竦めた。
「っていうか、お前、恋愛小説を書くつもり?」
 大東が眼を丸くした。
「プロットですが、僕は読ませていただきました。お世辞ではなく、素晴らしい出来です」
 磯川が柔和に眼を細めた。
 磯川には、池内に見せたのと同じプロットを読んでもらった。
「マジに!? いや~、想像つかないわ~。お前が恋愛小説なんて、ライオンがシャインマスカットを食べるようなもん……いや、ゴリラが花占いをやるようなもんだ」
 大東がまじまじと日向をみつめながら、からかいの言葉を口にした。
「大東、頼むから三分だけ黙っててくれ」
 日向が言うと、大東がふたたび肩を竦めた。
「磯川さん、『願い雪』を『日文社』で出してもらえないかな?」
 日向は、悩みに悩んだ末の言葉を磯川に言った。
「樹川書店」の返事はまだ貰っていない。
 ハードルは高くても、企画が通るかもしれない。
 だが、日向の心は決まっていた。
 迷っている担当編集者のもとではなく、一番信頼している磯川のもとで『願い雪』を出したかった。
「お断りします」
 磯川の言葉に、日向は耳を疑った。
「磯川さん……君まで!? 暗黒小説に比べて恋愛小説はリスクが高いから?」
 日向は質問を重ねた。
「いえ、『願い雪』をベストセラーにする自信はあります」
 磯川が即答した。
「じゃあ、なんで!?」
 日向は縋(すが)るような瞳を磯川に向けた。
「『願い雪』は、ウチより『樹川書店』で出すほうが十倍売れるからです」
 磯川が、柔和に微笑みながら頷いた。

(次回につづく)

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