第37話 大先輩作家の出版記念パーティーに出席した日向だが……

文字数 2,603文字


 ――今後の執筆の糧(かて)になるかもしれないので、一度は文壇のパーティーというものを体験しておいたほうがいいですよ。

 今回は、磯川の誘いがあったから出席したのだ。
「それにしても、著作数五百冊ってどんなペースで書いてるのかな? 俺なんか六冊でひいひいしてるのに、林田先生は宇宙人じゃないの?」
 日向は、磯川に冗談交じりに言った。
「林田さんはデビューして四十五年ですから、単純計算すると年間十一冊ペースで刊行していることになりますね」
「年間十一冊!?」
 日向は素頓狂(すっとんきょう)な声を上げた。
「林田さんは、小説に誠実な人ですから」
「小説に誠実?」
 日向は、磯川の言葉を鸚鵡(おうむ)返しにした。
「ええ。四十五年間、一字入魂の姿勢で小説に真摯(しんし)に向き合ってきましたからね。普通、それだけ長いこと小説を書いていると、やっつけとまでいかなくても息抜き的な作品があるものですが、林田さんの場合は全作に全力投球する方なので、それだけの著作を積み重ねられたのでしょう」
 磯川の言葉を聞きながら、なぜ今回にかぎって日向をパーティーに誘った理由がわかったような気がした。
「つまり、読者を裏切らないってことだよね」
 日向は言った。
 日向も、どう驚かしてやろう、どう泣かせてやろう、どう笑わせてやろう、どう感動させてやろう、と、常に読者を意識しながら執筆していた。
「やはり、通じましたか。林田さんと日向さんは作風も題材も年齢も容貌も違いますが、読者とストイックに向き合っているという共通点があります。私の勝手な思い込みで、間違っていたらすみません」
 磯川がビデオカメラのスイッチを切り、日向に顔を向けて言った。
「四十五年も第一線で活躍してきた林田さんと共通点があるだなんて恐縮すぎるけど、そういうふうに言ってもらえて素直に嬉しいよ」
「将来、日向さんも年間何作も刊行するような、多作な作家さんになると思いますよ」
 磯川が言うと、本当にそうなりそうな気がするから不思議だ。
「ただいまご指名を預かりました並河信一郎(なみかわしんいちろう)でございます。僭越(せんえつ)ではございますが乾杯の音頭を取らせていただきます。どうぞ皆様、お手元にグラスをご用意ください」
 林田のスピーチが終わり、スーツ姿の初老の男性が参加者に呼びかけた。
日向と磯川はビールのグラスを手に取った。
「あの人は林田さんが『黒潮社(くろしおしゃ)』でデビューした当時の並河さんという編集者で、いまは専務取締役です」 
 磯川が説明した。 
「大御所の芸人さんの若手の頃は駆け出しのADだった人が、編成部長になるようなものだね」
 日向はテレビ業界にたとえて言った。
「僕は日向さんがどれだけ大物になっても、役員にはなってないでしょうね」
 磯川が愉快そうに言った。
「そもそも、役員になりたいと思ってないよね?」
 すかさず日向は突っ込んだ。
「はい」
 拍子抜けするほどあっさりと、磯川が頷いた。
 わざわざ訊ねなくてもわかっていた。
 磯川が出世を見据えて仕事をしていたなら、日向作品は過激な表現や独特な文章に手を入れられ、無難だが凡庸な仕上がりになっていただろう。
 そして、日向のいまの活躍もないはずだ。
「磯川さんに出世欲がなくてよかったよ」
 日向は冗談めかして言ったが、本心だった。
「林田先生の益々のご健勝とご活躍を祈念いたしまして、乾杯!」
 並河専務の乾杯の音頭が、「飛翔の間」に響き渡った。
 日向と磯川はビールのグラスを触れ合わせた。
「それでは皆様、お食事も整いましたので、しばしご歓談をお楽しみください」
 並河専務の言葉に、人の動きが慌ただしくなった。
「行列ができますよ」
 磯川が意味深に言った。
「え? 行列って……」
「日向先生」
 日向は首を巡らせた。
黄色のフレームの眼鏡をかけた、日向と同年代と思(おぼ)しき男性が立っていた。
「はじめまして。私、『フジ出版』の戸塚(とつか)と申します」
 戸塚が名刺を差し出しながら、自己紹介をしてきた。
「日向です」
「『阿鼻叫喚』で度肝を抜かれてから、日向ワールドにどっぷりと嵌(はま)ってしまいました。弊社でも、是非、お願い致します!」
「ありがとうございます」
 日向は頭を下げた。
 顔を上げると、別の長身の男性が立っていた。
 長身の男性の背後には、いつの間にか四人の男性と二人の女性が並んでいた。
 磯川が口にした行列ができるとは、このことだったのか。
「『四葉社(よつばしゃ)』の古沢(ふるさわ)と言います。『無間煉獄』を読んだときに、とんでもない作家さんが出てきたと鳥肌が立ちました。もしよろしければ、ウチの小説誌で連載を始めていただくことをご検討ください」
「はい、考えてみます」
 日向は、古沢から名刺を受け取り頭を下げた。
 三人、四人、五人と同じようなやり取りが続いた。
「『明和(めいわ)出版』の畑中(はたなか)と申します。『願い雪』を読んで涙腺が決壊しました! 当社の『月刊女性生活』で、大人の恋愛小説の連載を始めていただけませんか?」
ベリーショートの女性編集者……畑中のオファーは、日向にとって意外なものだった。
『願い雪』が大ヒットしたとはいえ、ノワール作家のイメージが強い日向にメジャー女性誌から小説連載のオファーがあるとは思わなかった。
「俺で、いいんですか?」
 日向は素直な疑問を口にした。
「『願い雪』を読ませていただき、日向先生は女性心をよくわかってらっしゃる方だと思いました。『月刊女性生活』の読者層の三、四十代の女性の心に刺さる物語を、日向先生なら書いていただけると確信しました」
 畑中は瞳を輝かせ、声を弾ませた。
「ありがとうございます。執筆スケジュールを調整して、こちらからご連絡させていただきます」
「僕の言った通り、日向商店大繁盛ですね」
 畑中が去ると、磯川が日向に新しいビールのグラスを差し出してきた。
「ありがとう。磯川さんは予言者だね」
 日向はグラスを受け取り、磯川に言った。
「黒作品も白作品もベストセラーになった前代未聞の作家さんを、文芸編集者なら放っておきませんよ。ほら、また」
 磯川の視線を追い、日向は振り返った。

(次回につづく)

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