第45話 文芸部門から去るという磯川の決断に、日向の心は?

文字数 3,294文字

「それは、磯川騎手がヒュウガインパクトの気を損ねず、競馬は楽しいものだと思わせて、のびのびと走らせてくれたからだよ。ほかの騎手に乗り替わったときには、自分の能力を出せるようになっていたから、いい成績を残せてるってわけだ。お前の好きな野球だって同じだよ。高校野球で大活躍した期待の新人が、プロ入りしてから口うるさいコーチにあれだめこれだめってバッティングフォームをいじられまくって、才能を開花できないまま潰れた例がたくさんあるだろ?」
 日向は大東に、というより磯川に訴えるためにあらゆるたとえで説明した。
「なるほど。なかなか説得力あるな。小説家の語彙(ごい)があれば、女を口説くときにも役に立ちそうだな」
 大東がニヤニヤしながら言った。
「やっぱり、お前は黙ってろ。ということで、これが俺の思いだよ」 
 日向は大東に冷たく言い放ち、磯川に顔を向けた。
「そこまで僕のことを評価してくれて、ありがとうございます。でも、安心してください。『日文社』は辞めませんから」
 磯川が、日向に頷(うなず)いてみせた。
「ほんとに!? よっしゃ!」
 日向は拳を握り締めた。
「でも、文芸編集部からは離れます」
「え……」
 日向は、握り締めた拳を宙で止めて絶句した。
「文芸編集部から離れるって、どういうこと?」
 我に返った日向は、掠(かす)れた声で訊ねた。
「来週から、『日文社』の系列の『日文映像』に行くことになりました」
「『日文映像』って、大阪の映像制作会社の!?」
 日向は素頓狂(すっとんきょう)な声を上げた。
「はい。主に『日文社』の原作を映画化、ドラマ化している会社ですが、他社の原作も条件次第では扱っています」
「どうして、映像制作会社なんかに行くわけ!? 畑違いでしょ!? 局長に命じられたから!? もしかして左遷!?」
 日向は矢継ぎ早に訊ねた。
「いえいえ、局長に命じられたわけでも飛ばされたわけでもありません。僕が志願したんです。今回の件で会社に迷惑をかけたのは事実ですし、ケジメの意味でも文芸編集部を離れたほうがいいと判断しました」
 磯川は、穏やかな口調で事の経緯を説明した。
「会社に迷惑をかけたって……磯川さんは俺を庇(かば)ってくれただけじゃん! 悪いのは東郷じゃないか!」
 日向は興奮し、思わずカウンターに拳を打ちつけた。
 ショットグラスの中のテキーラが波打ち溢れた。
「たしかに、きっかけは東郷さんです。でも、大御所作家と出版社のパワーバランスを考えると、あなたが悪いでしょ、では済まされないのが現実です。今回のトラブルで、東郷さんの担当編集者や各部署に被害が及んでいるのも事実です。僕の会社なら、版権引き上げでも圧力でもお好きにどうぞ、と突っ撥(ぱ)ねることはできます。ですが、雇用されている社員の立場で、『日文社』に甚大な損害を与える危険な選択はできません。東郷さんがきっかけで起こった火事でも、僕が消火する必要があるんです。火をつけたのは東郷さんだからと僕が突っ撥ねたら、『日文社』に火の手が回って大勢の人間が犠牲になってしまいますから」
 磯川が、他人事(ひとごと)のように淡々とした口調で言った。
「いくら『日文社』に貢献している大御所作家だからって、もし版権引き上げって事態になっても、出版社を傾かせるほどの損害は出ないでしょ?」
 日向は率直な疑問を口にした。
 ミリオンセラーを連発しているアーティストが他のレコード会社に移籍するというのなら慌てるのもわかるが、東郷の作品が売れていると言っても桁が違う。
「損害を金額だけに換算すれば、そういうことになります。東郷真一が『日文社』から版権を引き上げたという噂(うわさ)が、業界に流れることが問題なのです」
「どういうこと? 別に、噂が広まっても『日文社』は潰れないでしょ?」
「潰れるとか潰れないとかの問題ではなく、三十年以上も貢献してきた作家を怒らせ版権を引き上げられるという事態は、出版社として決してあってはならないことなのです」
「だから、なんで? 出版社と喧嘩(けんか)別れしたら、お得意先が一社減ることになる東郷だって困るわけじゃん」
 日向は、ふたたび率直な疑問を口にした。
「さっきから言っているように、これはお金では計れない問題です。僕や日向さんみたいな性格だと理解し難(がた)いしがらみが、出版社と作家の間にはあるんですよ。日向さんふうに野球でたとえれば、長嶋茂雄(ながしましげお)選手や王貞治(おうさだはる)選手が読売(よみうり)ジャイアンツと揉(も)めて退団したとします。トラブルの原因はなんであれ、この一報を耳にした多くの人は読売ジャイアンツに責任があると思ってしまいがちなんです。解雇ならどちらに非があるか最初に答えが出ていますが、退団という曖昧(あいまい)な発表だと世間は球団側に非があるんだろうなと感じてしまいます。これは理屈ではなく、心理の問題です。東郷さんに話を戻しますが、版権を引き上げて絶縁するくらいだから、出版社側によほどの問題があったんだろうと多くの人は考えます。新人の頃、当時の編集長に言われました。絶対に作家と喧嘩するな。作家が百パーセント悪くても喧嘩をするな。唯一の例外は、作家が法を犯したときだけだ……と。つまり、当時の編集長が言いたかったのは、作家と争って勝てる編集者はほぼいないということです。もちろん、売れている作家の話ですけど」
「ようするに、東郷さんがいい悪いじゃなく、東郷さんと喧嘩した時点で『日文社』の負けが決まった……そういうこと?」
 日向が訊ねると、磯川がため息を吐(つ)きながら頷いた。
「おかしな世界ですが、そのおかしな世界を作ったのは僕達編集者ですから」
 磯川が自嘲(じちょう)的に笑った。
 甘かった……自分本位に考えていた。
 磯川は編集者なのだ。
 志は同じでも、日向のように感情のままに動けはしない。
 東郷と争っても日向なら犬猿の仲で終わる話だが、編集者は違う。
 編集者が「日文社」の大功労者を相手に盾突いてしまえば、その責任は出版社全体にまで及んでしまう。
 だからこそ、磯川はすべての責任を背負い文芸編集者をやめようとしているのだ。
 作家である自分なら、先輩に歯向かった謝罪として土下座すれば解決した問題……。
 日向の脳裏に、「日文社」のミーティングルームで東郷に土下座する磯川の姿が蘇(よみがえ)った。
「もしかして……」
 日向は、弾かれたように磯川を見た。
「なんですか?」
「磯川さんが文芸編集者をやめるのは、『日文社』のためだけじゃなくて俺のためもある?」
 日向は訊ねた。
「どうしたんですか、急に」
 磯川が、タンブラーを傾けながら訊ね返した。
 磯川が東郷に嚙(か)みついたのは、日向が侮辱されたのが原因だと思っていた。
 いや、それもあるだろう。
 だが、それだけが理由ではなかった。
 浅はかだった。
 それだけが理由なら、「日文社」のミーティングルームで東郷に嚙みつこうとする日向を止めなかったはずだ。
 磯川は東郷に土下座までして、日向への怒りを鎮めようとした。
 あのときは単に、東郷に食ってかかろうとする日向を止めるための土下座だと思っていた。
 違った。
 喧嘩になったところで、作家同士なので編集者のように責任を追及されなかったはず。
 そう、責任は追及されない。
 だが……。
「東郷が俺に圧力をかけるのを防ぐため……だよね?」
 日向は恐る恐る訊ねた。
 もし日向の予想が当たっていたなら、自分が磯川を文芸第三部から追い出したことになる。
「日向さんには、隠し事はできませんね。これがドラマの主人公なら、かっこいいセリフではぐらかし、ほかの人が日向さんに僕の本音を教えるって流れなんですけどね。でも、僕は俳優じゃないので、そんなスマートなことはできませんから、本当のことを話すしかないようですね」
 磯川が苦笑しながら言った。

(次回につづく)

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