第46話 新天地を目指すという磯川の言葉に、日向の心は乱れる

文字数 3,294文字

「東郷さんは日向さんに比べて遥かにキャリアがあるので、ほとんどの大手出版社に人気のシリーズ作品を抱えています。加えて、『文芸振興会(ぶんげいしんこうかい)』の会長も務めています。いまの勢いでは日向さんが東郷さんを圧倒していますが、まだ五作です。東郷さんには、二十倍以上の作品があります。刊行点数が多くても売れてないなら無価値ですが、東郷作品は数字を取っているので出版社にとっては大切な財産です」
「もし東郷さんが出版社のお偉いさんに、俺と日向のどっちを取るんだ? と圧力をかけたら結果は見えてる……ってことですね?」
 大東が口を挟んできた。
「そういうことです。どこの出版社も本心では日向さんの作品を出したくて仕方がなくても、二者択一を迫られたら数の論理で東郷さんを選ぶと思います。そんなことになったら、日向さんの小説を大手では出せなくなります。『文芸振興会』の会長にたいする忖度(そんたく)もありますしね」
 磯川が遣(や)る瀬(せ)無い表情で言った。
 やはり、そうだった。
 磯川は、日向が大手出版社で書けなくなる事態を避けるために犠牲になったのだ。
「磯川さん、俺のせいで……ごめん!」
 日向は磯川に向き直り、頭を下げた。
「やめてください」
 磯川が、慌てて日向の顔を上げさせた。
「いまからでも遅くない。俺が局長に話をするから、文芸第三部に残ってよ! 大手で書けなくなったとしても、大丈夫! 出版社の大小で勝負してるわけじゃないしさ。俺は、小さい出版社でもベストセラー作品を生み出す自信があるから」
 日向は、拳で胸を叩いた。
「わかってますよ。でも、そういう問題じゃないんです。日向誠という作家は、この先、五十作、百作と作品を生み出し続ける使命があります。賞レースには無縁でも、歴史に名を残す可能性のある作家だと僕は思っています。そんな日向さんを、大手では書けないという状況にするわけにはいきません。なぜなら、僕の夢は日向さんが東郷さんを作品数でも売り上げ部数でも抜く作家になることです。もっと言えば、日向さんにはファンの数もアンチの数も歴代作家ナンバーワンになってほしいですね」
 磯川が眼を細め、日向をみつめた。
「じゃあ、その夢を実現するために俺の担当でいてよ」
 無理な願い……わかっていた。
 わかっていたが、口にせずにはいられなかった。
「僕にも、いただけますか?」
 不意に磯川が言った。
「え?」
「それです」
 磯川が、日向のショットグラスに視線を移した。
「ビール党の磯川さんが、テキーラなんて珍しいね。俺が言うのもおかしな話だけど」
 日向は、大東が磯川の前に置いたショットグラスに琥珀(こはく)色の液体を注いだ。
「たまには、新しいお酒を飲みたくなるときもあります。今回も同じですよ。文芸編集者以外の景色を、眺めたくなっただけです」
 磯川は意味深な言い回しをすると、ショットグラスを宙に掲げた。

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「それにしても、ドラマに出てくるような素敵な書斎ですね!」
 南青山の日向の書斎――カッシーナのソファに座った早瀬(はやせ)が、好奇の宿る瞳で室内を見渡した。
 二十畳の空間は、日向が好きなヨーロッパの白家具で統一されていた。
「君は実家で、こんなの見慣れているだろう?」
 執筆用のデスクに座った日向は、苦笑しながらコーヒーカップを口元に運んだ。
 慶應義塾(けいおうぎじゅく)大学出身、「日文社」の専務の息子、身長百八十センチの長身に端整な顔立ち……早瀬は絵に描いたような経歴と容姿の持ち主だった。
 磯川が文芸第三部からいなくなって、三年が過ぎた。
 早瀬は、磯川の後任の編集者だった。
 磯川と入れ替わるように、販売部から文芸第三部に異動してきたのだ。
 まずは文芸第三部で実績を残させ、副編集長あたりの椅子に座らせる。
 その後、「日文社」の文芸の王道である文芸第二部の編集長の座に就かせる。
 警察組織にたとえれば、キャリアが幹部になる過程で警察署の署長として現場経験を積むようなものだ。
 キャリアがエリートコースに乗るために、署長時代に問題を起こさないように事なかれ主義であるのと同じで、早瀬もコンプライアンスに敏感だった。
 二年前に「小説原石」で連載開始した「絶対犯罪」が、早瀬が担当になってから初めての作品だった。
「日向先生、連載お疲れ様でした! 『絶対犯罪』、最高に面白かったです! 物語のスピード感と大どんでん返しに、時間を忘れて読み耽(ふけ)り、気づいたら明け方になっていました。さすがは日向先生ですね! とくに、主人公がヤクザを殺害する場面は読んでいて鳥肌が立ちました。『願い雪』を書いている作家さんと、同一人物とは思えません! そこで一つ、ご相談があります」
 ついに本題か?
 早瀬の相談がなにかは、聞かなくても想像がついていた。
「相談って?」
 日向は、知らないふりをして訊ねた。
「『願い雪』がミリオンセラーとなり、続く純恋シリーズ第二弾の『ある恋の詩(うた)』が二十万部のヒットとなり、ドラマ化が決定してさらに部数は伸びるでしょう。せっかく広がった白日向作品の読者を黒日向作品に取り込めれば……僕の言いたいこと、わかりますよね?」
「黒日向作品の売り上げが伸びるって言いたいんだろう?」
「はい。日向先生はこれまでに黒日向作品でも『阿鼻叫喚』が二十万部、『メシア』が三十万部売れています。あれだけの過激な内容、生々しい描写、差別的表現がありながら、この数字は驚異的です。でも、逆に言えば男性読者が九割以上占める黒日向作品は三十万部が限界です。僕は考えました。白日向作品の読者の五割でも取り込むことができたら、三十万部どころか五十万部を突破するのも夢ではないって」
 早瀬がソファから腰を上げ、日向のデスクの前に立った。
「そのためには、いまのままの生々しい描写や放送禁止用語のオンパレードでは、女性読者は手を出してくれません。僕からの提案をさせていただきます。『絶対犯罪』を刊行するに当たって、表現をソフトにしませんか? たとえば、三十五ページのこの表現です。『樋口は組長の下腹を滅多刺しにした。裂けた腹から溢(あふ)れ出した腸を樋口は引っ張り出し、組長の飼っていた土佐犬のサークルの中に放り投げた。土佐犬は腸にかぶりつき、糞を撒(ま)き散らしながら食らい始めた』を、『樋口は組長の下腹を滅多刺しにした。裂けた腹から大量の血液が流れ出した』にするのはどうでしょう?」
 早瀬が、日向に伺いを立ててきた。
「それじゃ、そこらの小説と同じだ」
 日向は、吐き捨てるように言った。
「どういう意味ですか?」
 早瀬が怪訝な顔で訊ねてきた。
「日向誠がベストセラー作家になれたのは、過去の暗黒小説とは一線を画した作風だからだよ。過激で、生々しく、下品で、常軌を逸した文章や比喩(ひゆ)が読者には衝撃的で、コアなファンを獲得できたわけさ。白日向作品の読者を取り込むために表現をソフトにするなんて、本末転倒の自殺行為になる」
 日向は、淡々とした口調で言った。
「それはないですよ。少し文章をソフトにしたくらいで、日向作品の面白さは損なわれません。もちろん、一番の理想は日向先生にいままで通りのスペシャルハードな文章を書いてもらうことですけど、白日向作品の読者を取り込むためには……」
「白の読者と黒の読者の境界線は消えないよ」 
 日向は、早瀬を遮(さえぎ)り言った。
「え?」
 早瀬が首を傾(かし)げた。
「一部の例外はあっても、白と黒の読者は交わらない。白の読者は黒作品に興味はないし、黒の読者は白作品に興味はない。欲をかいて両方の読者を取り込もうとすれば逆効果になる。つまり、両方とも日向作品から離れて行くってことだ。磯川さんなら、絶対にそんな提案をしてこないよ」
 日向はため息を吐いた。
 やはり、磯川の代わりが務まる編集者はいない。

(次回につづく)

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