第56話 デビュー十七年。十本の連載を抱える日向の心中は!?

文字数 2,462文字


 日向はため息を吐きながら、手紙を大東に渡した。
「今度はなんだよ」
 手紙を受け取った大東は、しばらくすると眉をひそめた。
「なんだこれ!? リアルミザリーじゃん。怖い怖い怖い……」
 大東は、読み終わった手紙をカウンターに放り投げた。
「犯罪者系や妄想系からの手紙は、月に十通くらいきてるよ」
 日向は涼しい顔で言った。
「お前さ、きた手紙を全部読んでるわけ?」
 大東が呆(あき)れた顔で訊ねてきた。
「ああ、出版社から転送されてきたやつはな」
「案外、律儀な男だな」
「そんなんじゃないって。俺のためだよ」
 日向が瓶ビールを飲み干すと、大東が新しい瓶ビールを冷蔵庫から取り出した。
「別の酒がいい」
 日向は言った。
「珍しいな。なににする?」
「ウイスキーを貰おうかな。銘柄は任せるから、ロックで」
「おっと、今日の日向先生はいつもと様子が違いますね~。ラフロイグでいいか?」
 大東が茶化すように言いながら、緑の瓶に白いラベルのウイスキーを日向に掲げて見せた。
 日向は頷(うなず)いた。
 酔えればジンでもテキーラでも、なんでもよかった。
「ところで、お前のためってどういう意味だよ?」
 丸氷の入ったロックグラスにラフロイグを注ぎながら、思い出したように大東が訊ねてきた。
「連続殺人鬼、妄想狂、サイコパス、変質者、メンヘラ、ロリコン……作家である以上、どんな犯罪者や倒錯者を書くにしても、現実を超えなきゃならない。現実に負けている犯罪者や倒錯者が出てくる小説なんて、読む気にならないだろう?」
 日向は、目の前に置かれたラフロイグのグラスを口元に運んだ。
 力強いスモーキーなフレーバーと磯の香りが、口内と鼻腔(びこう)に広がった。
「お前は昔から、徹底してるっていうか真面目っていうか、そういうとこがあったよな」
 大東が口元を綻ばせた。
「ぶっちゃけ、疲れたよ」
 日向は、ラフロイグを一息に飲み干した。
「おい、四十度以上の酒だぞ」
 大東が慌てて言った。
「もう一杯入れてくれ」
 日向は、空のロックグラスの底でカウンターを叩いた。
「マジに大丈夫か?」
 心配そうなに顔で、大東がロックグラスに琥珀(こはく)色の液体を満たした。
「ありがとう」
 今度は、ラフロイグを半分ほど流し込んだ。
 喉を強く灼(や)く感触が、いまの日向には心地よかった。
「小説を書くことに疲れたってことか?」
 大東が、ロックグラスの横に水のグラスを置いた。
 日向は頷いた。
「デビューしてから、何作くらい出してるんだっけ?」
「ちゃんと数えてないけど、七十作くらいかな」
「七十作!? いま、連載は?」
「十本」
「それで十七年もやってるんだから、そりゃ疲れるわな。俺には絶対無理」
 大東が下唇を出し、首を横に振った。
「もう、やめようかな」
 日向は、ぽつりと呟(つぶや)いた。
「ん? 連載か?」
「いや、小説家を」
 自分でも、驚くほどさらりと口に出た。
「え!? なんでだよ!? ベストセラー作家になって、連載もそんなに抱えているのに!」
 大東が素(す)っ頓狂(とんきょう)な声を上げた。
「なんでかな……」
 日向は他人事(ひとごと)のように言った。
 曖昧(あいまい)に言葉を濁したわけでも、惚(とぼ)けたわけでもない。
 そもそも、小説家を引退したいなどと考えたことはなかった。
 不意に、頭に過(よぎ)ったことを口にしてしまった感じだ。
「なんでかなって……自分で言っておきながら、理由がわからねえのかよ?」
 大東が怪訝(けげん)な顔を日向に向けた。
「なんか、小説を書いてて燃え上がるものがないんだよな。仕事として、やってるっていうか」
「仕事だから、あたりまえだろ」
 すかさず、大東がツッコミを入れてきた。
「そういうことじゃなくて、以前は構想段階から、今度はこういうものを書いて読者を驚かせてやろう、世間を震撼させてやろうって考えてワクワクしてたけど、最近じゃ、新作はこのテーマで行こう、このテーマはまだ書いてないな、とか、そんな感じで事務的に選んでいるような気がしてさ」
 日向は、自分の心を覗き込みながら説明した。
「まあ、七十作も書けばそうなるだろ? 新しいテーマを探すのも難しくなってくるし、読者を驚かせることも世間を震撼させることも、さんざんやってきたわけだからな。夫婦だって、最初はドキドキワクワクでくっつくけど、十年、二十年と経てばそんな感情はなくなるだろ? だからって、その夫婦に愛がなくなったってわけじゃなくて、熟練の味っつうもんが出てくるわけじゃんか? お前も、荒々しく勢いで突っ走っていた時代から、そういうふうな作風にシフトするタイミングじゃないのか?」
 大東が、真剣にアドバイスをくれるのは珍しいことだ。
「百六十キロの直球で三振の山を築いていたピッチャーが、変化球を主体にした技巧派に変身するってやつか?」
 日向は、冗談とも本気ともつかない口調で訊ねた。
「そうそうそう! お前も四十七だっけ? いつまでも、R指定小説とかジェットコースター小説とかって年でもねえわけだし。モデルチェンジした日向誠も、なかなか面白そうだぜ」
 大東の言葉にも、一理あるのかもしれない。
 ただし、普通の作家なら……の話だ。
 日向作品は麻薬……読者を中毒にしてきた。
 いまさら、中毒性のない作風の作家に転向したら、これまでついてきてくれた読者が満足しない。
 毒を食らわば皿まで――行きつく先が天国でも地獄でも、日向は走り続けなければならない。
「悪い悪い。忘れてくれ。お前にこんなこと話すのは、カブトムシに人生相談するようなもんだな」
 日向はいつもの明るく毒のあるジョークで、しんみり重くなった空気を払拭(ふっしょく)した。
「俺は昆虫かい! せめて、犬か猫でたとえんかい!」
 大東が下手な関西弁で突っ込むと、日向と顔を見合わせ爆笑した。

(次回につづく)

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