第40話 『願い雪』出演を迫るトップ女優に、日向は意外な言葉を

文字数 3,355文字

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「日向さん、安心してくださいね。僕はこういう原作の映像化の交渉には慣れてますから。ウチはこれまでも、『樹川(きがわ)映画』で十本を超えるヒット作を出した実績があります。普通の出版社とは経験値が違います」
 六本木の「ブランドハイクラスホテル」のラウンジ――「樹川書店」の池内が、自信に満ちた言葉とは裏腹に、そわそわと腕時計を見ながら言った。
 日向が気づいただけでも、五分間に五回以上は腕時計に視線を落としていた。
「池内さんこそ、落ち着いてください。何度見ても、時計の進むスピードは変わりませんから」
 日向は苦笑しながら言った。
「たしかに、それはそうですね」
 池内が照れ臭そうに笑った。
 今日は『願い雪』の映画化のキャスティングの売り込みで、「アクタープロ」のチーフマネージャーと会うことになっていた。
 発売三ヶ月で四十万部を突破した大ベストセラーの『願い雪』が、満島博(みつしまひろし)監督で映画化が決定し、情報解禁されてからは各芸能プロダクションのマネージャーが主役の座を勝ち取るために、競い合うように日向詣でをしてきた。
 ドラマ化の場合はテレビ局のプロデューサーに売り込むマネージャーが多いが、映画化では原作の世界観を大事にするので原作者にアプローチしてくる場合が多い。
 この一ヶ月で、男性主人公の売り込みで三社の、女性主人公の売り込みで五社のマネージャーが日向のもとを訪れた。
 売り込まれてくる男優も女優も、主役クラスの役者ばかりだった。
 原作が四十万部のベストセラー作品、物語は純愛、配給は日本最大手の「大宝(だいほう)」、監督はアカデミー賞受賞歴二回の満島博……各芸能プロダクションがエース級のタレントを売り込んでくるのも無理はない。
 今回はヒロインの小雪(こゆき)役に、「アクタープロ」の看板女優の七瀬(ななせ)まどかを売り込んできた。
「それに、俺は芸能プロをやっているので、映像化のキャスティングは池内さんより慣れていますから」
「そうでしたね! いやいや、お恥ずかしい。釈迦(しゃか)に説法というやつでしたね」
 池内は、羞恥(しゅうち)のあまり耳朶(みみたぶ)まで赤くしていた。
「これまでは、原作者にお願いする立場でしたけどね。売り込まれる立場になるなんて、人生はわからないものです」
 日向はしみじみと言った。
 作家デビューするまでは、各テレビ局のプロデューサーや原作者の秘書に頭を下げて回っていたのが、頭を下げられる側になったのだ。
「日向さんは、本当に波乱万丈な……」
 池内がラウンジの入り口を見て、驚いた顔で言葉を切った。
 ノーフレームの眼鏡をかけた濃紺のスーツ姿の男性……「アクタープロ」のチーフマネージャーの楢島(ならしま)が、日向達のテーブルに歩み寄ってきた。
 楢島とは過去に何度か現場で会ったことがあるので、顔見知りだった。
 楢島の後ろをついて歩く黒のニットキャップ、サングラス、黒のニットセーター、黒のデニム姿の女性からは、隠しようのないオーラが発せられていた。
 池内が驚くのも無理はない。
「日向さん……いや、日向先生でしたね! お久しぶりです!」
 楢島が、笑顔で名刺を差し出してきた。
 作家になる前に会ったときは、楢島のこんな笑顔を見たことはなかった。
「私は持っているので、版元の編集長のほうに渡してあげてください」
 日向は楢島に言うと、池内を目顔で促した。
「は……はじめまして。『樹川書店』文芸部編集長の池内です」
 池内が、緊張気味に楢島と名刺交換をした。
 池内の緊張の理由――楢島の背後の七瀬まどか。
 七瀬は三クール連続でキー局プライムタイムの連続ドラマの主役を張り、七社の企業とCMの契約をしている二十二歳の売れっ子女優だ。
 芸能プロダクションのマネージャーが、新人タレントならまだしも主役級の女優を売り込みに連れてくることはありえない。
 しかも、個室でもないホテルのラウンジなど論外だ。
 だが、日向には読めていた。
 楢島のシナリオが……。
 そう、これは、各芸能プロダクションの看板女優が狙っている小雪役を確実に手にするための、楢島の一か八かの実力行使だ。
「日向先生、今日は七瀬も同席させてよろしいですか?」
 楢島が、わざとらしく訊(たず)ねてきた。
「もちろんですとも! さあ、どうぞ、お座りください!」
 池内が日向に代わって、七瀬に椅子を勧めた。
「はじめまして。七瀬まどかです。『願い雪』は私の大好きな作品で、もう三度も読み返してます!」
 七瀬がサングラスを外し、声を弾ませた。
 これも、楢島のシナリオに違いない。
 七瀬は、新雪のように白い肌に黒真珠を嵌(は)め込んだようなエキゾチックな瞳で日向をみつめた。
隣で池内が、恍惚(こうこつ)とした顔でため息を吐(つ)いた。
「ありがとうございます。発売してまだ三ヶ月なのに、三度も読み返してもらえるなんて光栄です」
 日向はリップサービスを返した。
 楢島に言われたからとはいえ、飛ぶ鳥を落とす勢いの女優が売り込みの席に顔を出すのだから、それなりの敬意を表さなければならない。
 だからといって、七瀬に小雪役をやらせるということとはイコールではない。
 七瀬がジャスミンティーを、楢島がホットコーヒーを注文した。
「『願い雪』は本当に素敵な作品ですね。王道の恋愛小説でありながら、斬新で、ミステリーの要素も含まれていて、ノスタルジックな雰囲気が漂っている。いままで、こんな恋愛小説を読んだことはありません。私は、生きているうちにこんなに素晴らしい作品に出合えて幸せです」
 楢島はハナを切った逃げ馬のように、日向の歯の浮く暇もないほど最初から飛ばした。
「ありがとうございます。でも、褒(ほ)め過ぎですよ。恋愛小説の名手は、文壇にはたくさんいますから」
 日向は苦笑しながら謙遜した。
「いえいえ、『願い雪』はほかの恋愛小説とは一線を画した名作です!」
 楢島が力説した。
「私も、同感です! 最初にゲラを読んだときに、背筋に電流が走ったような衝撃を受けました。過去に多くの純愛ものを読んできましたが、『願い雪』はどの作品とも違う新感覚の恋愛小説です。僕は、純恋小説、と名づけて帯にキャッチとして使いました。手前味噌ですが、四十万部突破のきっかけくらいにはなれたかな、と思っています」 
 池内が、さりげなく自画自賛した。
「さすがは『樹川書店』の切れ者編集長ですね! 日向先生と池内編集長の最強タッグで、生まれるべくして生まれた名作なのですね。私は、そんな素晴らしい作品が映画化されるという話を聞いたときに、居ても立ってもいられませんでした。それは、七瀬も同じです。さあ、君の思いも日向先生に伝えなさい」
 楢島が、七瀬にバトンを渡した。
「私は、『願い雪』の小雪役をやらせていただきたくて、主役が内定していた来年四月クールの連ドラをお断りしたいと、楢島チーフにお伝えしました」
 七瀬が日向をみつめてきた。
 さすがにトップ女優だけあり、破壊力抜群の目力だった。
 女優という魔物を知らない男性なら、数秒で理性を失ってしまうことだろう。
「小雪役をやるために、主役の連ドラを蹴ったんですか!? 日向さん、七瀬さんに決めましょうよ!」
 池内が感極まった声で言いながら、日向に顔を向けた。
「七瀬さん。お気持ちは嬉(うれ)しいのですが、連ドラのオファーは受けてください。現時点では、七瀬さんを小雪役にキャスティングできるという保証はありませんから」
 日向は池内を無視して、敢(あ)えて事務的な口調で言った。
 池内は、口をあんぐりとさせていた。
「楢島さん、そういうことなので連ドラのオファーは……」
「キャスティングされなくても構いません。私は『願い雪』の小雪役に立候補するために、連ドラのオファーを断ると決めたのです。私にとって念願の小雪役は、それだけの価値があります」
 日向の言葉を遮り、七瀬が言った。
 目力はさらに強さを増し、瞳が射抜かれるようだった。

(次回につづく)

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