第41話 樹川書店の編集者から、磯川の近況を聞いた日向は――

文字数 3,438文字

「ウチの七瀬は、一度決めたら脇目も振らずに突き進むタイプで、私の言うことも聞きません。日向先生、たとえキャスティングされなくても、どうこう言うつもりはありません。七瀬をスタートラインに立たせてくれるだけで十分です」
 楢島がレンズ越しの眼を柔和に細めた。
 七瀬もたいしたものだが、楢島も伊達(だて)に大手芸能プロダクションのチーフマネージャーをやってはいない。
 自社のタレントの売り込みとしては、ほぼ完璧に近かった。
「わかりました。では、いくつか質問させてください。七瀬さん、どうして『願い雪』をやりたいと思ってくれたんですか?」
 日向は七瀬に訊ねた。
「私、幸せなことに、これまで多くの映画に出演させていただきましたが、不思議と恋愛映画は一度もないんです。だからといって、恋愛映画ならなんでもいいわけではありません。悲しくて儚(はかな)いけれど、美しくて強い愛情の物語です。私は小雪になりたい。この役は誰にも渡したくない。『願い雪』を読んで、初めてそう思いました。そんな気持ちにさせてくれる原作に出会ったのは初めてです。これで、答えになってますか?」
 七瀬は質問しているが、その表情は自信に満ちていた。
「はい、七瀬さんの気持ちは伝わりました。楢島さん。ほかの事務所からも何人か女優さんの売り込みが入ってますので、一周するまで時間をください」
 噓(うそ)ではなかった。
 七瀬まどかと同クラスの女優を四人、別のプロダクションから売り込まれていた。
「もちろんです! でも、私はウチの七瀬に絶対の自信を持ってます。朗報を、心待ちにしています。では、これで失礼します」
 楢島は頭を下げ、伝票を手に取り立ち上がった。
「また、お会いできることを楽しみにしています」
 七瀬が笑顔で言い残し、楢島のあとに続いた。
 二人とも、注文した飲み物に一口もつけていなかった。
「生でみると、さらに綺麗でしたね。すっかり、心を奪われましたよ」
 池内が七瀬の背中を見送りながら、うっとりした表情で言った。
「ところで、日向さん。どうして七瀬まどかに決めないんですか? あんなに売れっ子の女優が、連ドラの主役を蹴ってまでスケジュールを空けているんですよ! その上、売り込みに同席までしてくれたんですよ! 迷う必要なんて、ないじゃないですか?」
 池内が怪訝(けげん)そうに訊ねてきた。
 ミーハーとは無縁の磯川なら、売れているからといって無条件に誰かを評価したりしない。
 肩書や知名度に左右されずに、物事の本質を見抜いて日向にものを言う。
 池内も優秀な編集者ではあるが、磯川とは次元が違う。
「たしかに、七瀬まどかはいい女優だし、勢いも実績もあります。『願い雪』のヒロインとして、不足はないでしょう。問題は事務所です」
「事務所が問題とは、どういう意味ですか?」
「『アクタープロ』は、ごり押しで有名なプロダクションなんですよ」
「ごり押しって、タレントのごり押しのことですか?」
 日向は頷(うなず)いた。
「ウチのタレントも、決まっていた役を何度か奪われました。『アクタープロ』は、ドラマや映画の五番手まで、すべて所属タレントをねじ込んできます。いわゆる、バーターというやつです。監督やプロデューサーが難色を示したり、主役を降ろしたりすると恫喝(どうかつ)してくるので、従うしかないんです。俺は『願い雪』を大手プロダクションの占有物件にしたくはありません」
 話題の映画になるほどに、有名なタレントを数多く抱えるプロダクションが脚本から演出にまで口を出してくるものだ。
 芸能プロの社長の立場のときは、「アクタープロ」の権力支配には目を瞑(つむ)ってきた……というより、目を瞑るしかなかった。 
 いまは違う。
 逆に原作者の権利を振り翳(かざ)そうというわけではない。
 数年がかりで生み出した大切な物語を、芸能プロダクションのパワーゲームに利用されたくはなかった。
「なるほど。でも、日向さんは原作者ですから、『アクタープロ』もこれまでと同じように強引なことはできませんよ」
 池内が楽観的に言った。
「俺には直接言えなくても、プロデューサーや監督に圧力をかけて外堀を埋めようとしてきます。俺は、『願い雪』をいい映画にすることだけに専念したいんです。だからといって、七瀬さんを外すと決めているわけではありません。ほかの女優さんと顔合わせしてみて、小雪役のイメージに一番合う子を選びます」
「わかりました。日向さんは、文壇より芸能界のほうが似合ってますね。あ……いや、文壇が似合わないという意味ではありません」
 池内が慌てて否定した。
「大丈夫ですよ。自覚してますから」
 日向は冗談めかして言った。
「あ! そうだ。話は変わりますけど、『日文社』の磯川さんは大丈夫ですか? 日向さんの担当ですよね?」
 池内が、思い出したように訊ねてきた。
「え? 磯川さんになにかあったんですか?」
 日向は訊(き)き返した。
「あれ? 知らないんですか!? いま、磯川さんが原因で『日文社』は大変なことになっています。先月、東郷先生と磯川さんの間で、なにかトラブルがあったようです。東郷先生は、イエスマンで周囲を固めています。磯川さんはあの性格ですからね。適当に従っておけばよかったのに、反論したみたいです。話では、いつものように東郷先生が酒の席で暴君になっているところを、磯川さんが諫(いさ)めたとか。編集者はすべて家来みたいに扱う東郷先生も東郷先生ですけど、意見する磯川さんも怖いもの知らずですね」
 池内が、呆(あき)れた表情で肩を竦(すく)めた。
 どうやら池内は、その場に日向がいたことを知らないようだ。
「『日文社』が大変なことになっているって、なんですか?」
 胸騒ぎに導かれるように、日向は訊ねた。
「磯川さんに激怒した東郷先生が、『日文社』の局長を呼びつけて爆弾を投下したみたいです」
 池内が声を潜めて言った。
「どんな爆弾ですか?」
「いえ、そこまではわかりませんが、局長が呼びつけられるくらいだから、少なくとも磯川さんは無事ではいられないでしょうね。あの人も、もうちょっとうまくできるといいんですが。過去にも、大御所の大和田泰造(おおわだたいぞう)先生のゲラに赤を入れまくって版権を引き上げる引き上げないの大騒ぎになったり、後輩が担当している直木賞作家の先生のゲラにまで赤を入れまくって後輩が担当を替えられたり……磯川さんのトラブルを数え上げたらキリがありません。あ、説教魔で有名な根本真知子(ねもとまちこ)先生に電話して、仕事以外で後輩編集者を呼び出さないでくれと釘(くぎ)を刺したという武勇伝もあります」
 池内が、渋面(じゅうめん)を作りため息を吐いた。
「でも、磯川さんは間違ったことはやってないと思います」
 日向は、平常心を搔き集めて冷静な口調で言った。
「たしかに、間違ってはいません。でも、磯川さんの言動は上司や後輩を窮地に追い込みます。自分の信念を貫くのも立派かもしれませんが、その信念は言い換えればエゴです。作家あっての出版社、出版社あっての編集者なんです」
「磯川さんが赤を入れた原稿を見たことありますが、漢字や助詞の使いかたの間違いを指摘しているだけです。間違いを指摘しないでそのまま刊行したら、その作家や出版社の恥になるというのが磯川さんの考えです。俺も、正しいと思います」
 日向は感情的にならないように気をつけた。
「日向さんみたいな理解のある作家さんばかりなら、それでいいと思います。でも、現実は反論されたり間違いを指摘されたりすると激怒し、やれ版権引き上げだ、やれ連載中止だ……と騒ぎ出すような作家さんが多いんです。だから、磯川さんのように正しいことを貫き通しているんだ、という自己満足の姿勢ではトラブルが絶えません。彼が責任を取ることですべてが解決するならまだしも、それでは終わりませんからね。現に今回も、東郷先生を怒らせて局長が平身低頭で謝罪しています。磯川さんのエゴで、世話になっている出版社や後輩編集者に被害が及んでいるという事実を……」
「なにも知らないくせに、勝手なことばかり言うな!」
 我慢の限界――抑えていた感情が爆発した。
 日向の勢いに気圧(けお)された池内が、表情を失った。

(次回につづく)

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