第42話 磯川が心配で、日文社へ向かった日向が耳にしたのは!?
文字数 2,680文字
「俺を守るために、磯川さんは東郷さんと揉めたんですよ! 悪酔いした東郷さんが俺を侮辱し、暴言を吐き、しつこく絡んできたから、磯川さんが注意したんです。そしたら東郷さんが激怒して……磯川さんは、俺を守るために仕方なく反撃したっていうのが真相です。エゴとか正義感で、東郷さんに反抗したわけじゃありません!」
池内に話しても無駄なこと……わかっていたが、守りたかった。
今度は、自分が磯川を……。
「そうだったんですね……。事情も知らずに失礼なことを言って、すみませんでした」
池内が詫(わ)びてきた。
「俺も、声を荒らげてすみませんでした。でも、わかってください。磯川さんは誤解されやすい性格をしていますけど、自分のエゴや意見を押し通すために誰かと揉めたことはありません。俺は、磯川さんほど損得勘定で動かない人をみたのは初めてです。もし、彼に損得勘定があるなら、大御所作家のゲラに赤なんて入れませんよ。みてみぬふりをするのが一番安全ですからね。でも、大御所作家や出版社が恥をかかないように、磯川さんは嫌われ役を買って出ているんですよ。局長が呼び出され、結果的に問題が大きくなることで、磯川さんが悪者のようになってしまいます。今回のトラブルは、東郷さんの傍若無人ぶりが発端でした。ただ、忘れてほしくないのは、その傍若無人な作家を作り上げたのは出版社だという事実です」
数ページしか書かないパリの描写のために、取材を理由にビジネスクラスの航空券と五つ星ホテルの宿泊代を当然のように要求する作家、要求に当然のように応える編集者。アイディアが浮かばないから気分転換したいと、当然のように編集者を飲みに誘う作家、夜の突然の呼び出しに当然のように応える編集者。女性と高級レストランで食事したいからと、予約から支払いまでを当然のようにさせる作家、当然のように予約から支払いまで引き受ける編集者……暴君になった作家にも暴君を作った編集者にも責任はあった。
「……耳が痛いです」
池内が、消え入りそうな声で言った。
「じゃあ、俺はこれで」
日向は席を立つと、足早にラウンジの出口に向かった。
ホテルを出ると、日向は横づけされていたタクシーに乗った。
「文京区音羽(おとわ)に向かってください」
日向は逸(はや)る気持ちを抑え運転手に告げると、スマートフォンを取り出し磯川の番号をタップした。
『オカケニナッタデンワハデンゲンガハイッテイナイカデンパガ……』
日向は電話を切り、リダイヤルした。
『オカケニナッタデンワハ……』
日向は電話を切った。
「運転手さん、急いでください!」
磯川にかかる火の粉は、今度は俺が振り払う。
日向は、心で固く誓った。
☆
「日文社」のロビーを、日向は忙(せわ)しなく往復していた。
受付の女性が、怪訝そうに日向を見ていた。
「お待たせして、すみません!」
エレベーターから下りてきた菊池(きくち)が、日向に駆け寄ってきた。
菊池は文芸第三編集部の磯川の後輩だ。
「悪いね、急に」
「いえいえ。いま、入館手続きしますから」
菊池が日向に告げ、受付カウンターに向かった。
――磯川さんと連絡がつかないんだけど、彼はいま、どこにいる?
――磯川さんは、局長達と会議室にいます。
日向はタクシーの車内からかけた、菊池との会話を思い出していた。
日向の危惧(きぐ)した通り、磯川は窮地(きゅうち)に立たされているようだった。
「日向先生、お待たせしました」
菊池が入館証を日向に差し出した。
「磯川さんは、大丈夫か?」
日向は入館証を首にかけながら訊ねた。
「それが……」
菊池が言い淀(よど)んだ。
「それが……どうしたんだ?」
日向は菊池を促した。
「日向先生がこちらに向かっている間に、東郷先生が合流しました」
「東郷さんが!? なぜ!?」
「先日のトラブルの件だと思います。会議室の隣の部屋を押さえてあります。壁が薄いので、ひそひそ声でないかぎり会話は聞こえると思います。とにかく、急ぎましょう」
菊池が日向をエレベーターに先導した。
八階で日向と菊池はエレベーターを降りた。
「こちらへ」
菊池が会議室の隣の部屋……原稿室のドアを開けた。
積み上げられた段ボール箱に囲まれたスペース……原稿室は、「日文社」に送られてきた応募原稿を保管しておく部屋だ。
『東郷先生に謝りなさい!』
男性の野太い声が、壁越しに聞こえてきた。
「局長です」
菊池が日向の耳元で囁(ささや)いた。
日向は壁に耳を当てた。
『謝るべき理由がありません』
今度は磯川の声だ。
「うわ……やっぱり磯川さんだ」
菊池が顔を顰(しか)めた。
『東郷先生に無礼を働いておきながら、その態度はなんだ!』
局長の怒声。
『僕は、東郷先生に無礼を働いた覚えはありません』
磯川の声は、いつもと変わらぬ淡々としたものだった。
『お前、俺に吐いた暴言を忘れたのか!? 盗撮して脅(おど)してきたことを忘れたのか!?』
「やばいですね……東郷先生、怒り心頭ですよ」
菊池の顔が強張(こわば)った。
『東郷さんは、酒に酔って日向さんをホスト崩れとか作品を三流漫画とか侮辱しました。ほかにも、日向さんの小説を「日文社」で刊行するなと編集長を恫喝したり、東郷さんの言動が度を越していたので、謝罪してくださいと言っただけです』
『あいつの身なりがホスト崩れみたいで、あいつの小説が三流漫画みたいだから思ったことを言っただけだ! そもそも、編集者の立場で俺に謝罪を求めるとは、自分のことを何様だと思ってるんだ!』
東郷の怒声のボリュームが増した。
「き、気にしないほうがいいですよ。東郷先生は口が悪くて有名な人ですから」
菊池が日向の顔色を窺(うかが)いながら言った。
「俺のことより、磯川さんをなんとかしないと……」
日向は足を踏み出しかけて、思い直した。
ここで日向が出て行けば、事態はさらに悪化する。
そもそも、今回の事件も磯川が日向を庇(かば)ったことで起こったのだ。
『僕は何様でもありませんが、担当編集者として日向さんが侮辱されるのを黙って見過ごすわけにはいきません。それ以上でも、それ以下でもありません』
磯川は動揺したふうもなく、淡々とした口調で言った。
「磯川さんは凄(すご)いな。僕には無理だな……」
菊池が独(ひと)り言(ご)ちた。
(次回につづく)
池内に話しても無駄なこと……わかっていたが、守りたかった。
今度は、自分が磯川を……。
「そうだったんですね……。事情も知らずに失礼なことを言って、すみませんでした」
池内が詫(わ)びてきた。
「俺も、声を荒らげてすみませんでした。でも、わかってください。磯川さんは誤解されやすい性格をしていますけど、自分のエゴや意見を押し通すために誰かと揉めたことはありません。俺は、磯川さんほど損得勘定で動かない人をみたのは初めてです。もし、彼に損得勘定があるなら、大御所作家のゲラに赤なんて入れませんよ。みてみぬふりをするのが一番安全ですからね。でも、大御所作家や出版社が恥をかかないように、磯川さんは嫌われ役を買って出ているんですよ。局長が呼び出され、結果的に問題が大きくなることで、磯川さんが悪者のようになってしまいます。今回のトラブルは、東郷さんの傍若無人ぶりが発端でした。ただ、忘れてほしくないのは、その傍若無人な作家を作り上げたのは出版社だという事実です」
数ページしか書かないパリの描写のために、取材を理由にビジネスクラスの航空券と五つ星ホテルの宿泊代を当然のように要求する作家、要求に当然のように応える編集者。アイディアが浮かばないから気分転換したいと、当然のように編集者を飲みに誘う作家、夜の突然の呼び出しに当然のように応える編集者。女性と高級レストランで食事したいからと、予約から支払いまでを当然のようにさせる作家、当然のように予約から支払いまで引き受ける編集者……暴君になった作家にも暴君を作った編集者にも責任はあった。
「……耳が痛いです」
池内が、消え入りそうな声で言った。
「じゃあ、俺はこれで」
日向は席を立つと、足早にラウンジの出口に向かった。
ホテルを出ると、日向は横づけされていたタクシーに乗った。
「文京区音羽(おとわ)に向かってください」
日向は逸(はや)る気持ちを抑え運転手に告げると、スマートフォンを取り出し磯川の番号をタップした。
『オカケニナッタデンワハデンゲンガハイッテイナイカデンパガ……』
日向は電話を切り、リダイヤルした。
『オカケニナッタデンワハ……』
日向は電話を切った。
「運転手さん、急いでください!」
磯川にかかる火の粉は、今度は俺が振り払う。
日向は、心で固く誓った。
☆
「日文社」のロビーを、日向は忙(せわ)しなく往復していた。
受付の女性が、怪訝そうに日向を見ていた。
「お待たせして、すみません!」
エレベーターから下りてきた菊池(きくち)が、日向に駆け寄ってきた。
菊池は文芸第三編集部の磯川の後輩だ。
「悪いね、急に」
「いえいえ。いま、入館手続きしますから」
菊池が日向に告げ、受付カウンターに向かった。
――磯川さんと連絡がつかないんだけど、彼はいま、どこにいる?
――磯川さんは、局長達と会議室にいます。
日向はタクシーの車内からかけた、菊池との会話を思い出していた。
日向の危惧(きぐ)した通り、磯川は窮地(きゅうち)に立たされているようだった。
「日向先生、お待たせしました」
菊池が入館証を日向に差し出した。
「磯川さんは、大丈夫か?」
日向は入館証を首にかけながら訊ねた。
「それが……」
菊池が言い淀(よど)んだ。
「それが……どうしたんだ?」
日向は菊池を促した。
「日向先生がこちらに向かっている間に、東郷先生が合流しました」
「東郷さんが!? なぜ!?」
「先日のトラブルの件だと思います。会議室の隣の部屋を押さえてあります。壁が薄いので、ひそひそ声でないかぎり会話は聞こえると思います。とにかく、急ぎましょう」
菊池が日向をエレベーターに先導した。
八階で日向と菊池はエレベーターを降りた。
「こちらへ」
菊池が会議室の隣の部屋……原稿室のドアを開けた。
積み上げられた段ボール箱に囲まれたスペース……原稿室は、「日文社」に送られてきた応募原稿を保管しておく部屋だ。
『東郷先生に謝りなさい!』
男性の野太い声が、壁越しに聞こえてきた。
「局長です」
菊池が日向の耳元で囁(ささや)いた。
日向は壁に耳を当てた。
『謝るべき理由がありません』
今度は磯川の声だ。
「うわ……やっぱり磯川さんだ」
菊池が顔を顰(しか)めた。
『東郷先生に無礼を働いておきながら、その態度はなんだ!』
局長の怒声。
『僕は、東郷先生に無礼を働いた覚えはありません』
磯川の声は、いつもと変わらぬ淡々としたものだった。
『お前、俺に吐いた暴言を忘れたのか!? 盗撮して脅(おど)してきたことを忘れたのか!?』
「やばいですね……東郷先生、怒り心頭ですよ」
菊池の顔が強張(こわば)った。
『東郷さんは、酒に酔って日向さんをホスト崩れとか作品を三流漫画とか侮辱しました。ほかにも、日向さんの小説を「日文社」で刊行するなと編集長を恫喝したり、東郷さんの言動が度を越していたので、謝罪してくださいと言っただけです』
『あいつの身なりがホスト崩れみたいで、あいつの小説が三流漫画みたいだから思ったことを言っただけだ! そもそも、編集者の立場で俺に謝罪を求めるとは、自分のことを何様だと思ってるんだ!』
東郷の怒声のボリュームが増した。
「き、気にしないほうがいいですよ。東郷先生は口が悪くて有名な人ですから」
菊池が日向の顔色を窺(うかが)いながら言った。
「俺のことより、磯川さんをなんとかしないと……」
日向は足を踏み出しかけて、思い直した。
ここで日向が出て行けば、事態はさらに悪化する。
そもそも、今回の事件も磯川が日向を庇(かば)ったことで起こったのだ。
『僕は何様でもありませんが、担当編集者として日向さんが侮辱されるのを黙って見過ごすわけにはいきません。それ以上でも、それ以下でもありません』
磯川は動揺したふうもなく、淡々とした口調で言った。
「磯川さんは凄(すご)いな。僕には無理だな……」
菊池が独(ひと)り言(ご)ちた。
(次回につづく)