第57話 久々に、制約のない黒日向作品に取り組んだはずだったが
文字数 2,843文字
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執筆部屋に、パソコンのキーを叩く乾いた音が響き渡った。
日向が執筆しているのは、「東京公論新社」での新連載「僕の殺し方のほうが美しい」の第二話だった。
物語は、二〇〇四年に少年八人が一人の少女を監禁、暴行の末に惨殺した「墨田区セメント詰め殺人事件」と、一九九〇年代に神戸の当時中学生の少年が男子児童を殺害し、生首を教会のマリア像の足元に置いた、「神戸少年生首事件」の主人公が対決する黒日向作品だ。
黒日向作品はこの十年間で七作品刊行してきたが、時代とともにコンプライアンスの締め付けが厳しくなり、比喩や描写は初期の頃よりもソフトなものになっていた。
最近の日向は丸くなった。
昔みたいに放送禁止用語や差別用語を連発してくんないかな?
売れっ子作家になったから、イメージを悪くしたくないんだろう。
ページが薄くなったのは連載が増えたから忙しくなって、やっつけになったんじゃないの?
インターネットの読者の感想スレッドでも、日向が守りに入った、白作品の読者の眼(め)を意識して柔らかい文章になった、などの声が多く上がるようになった。
放送禁止用語や差別用語を使わなくなったのは、イメージアップが目的なのではなく、単純に出版社がコンプライアンスに雁字搦(がんじがら)めにされているからだ。
たとえば、「水商売の女は信用できねえんだよ!」「女はおとなしく飯でも作ってりゃいいんだよ!」という男尊女卑の男のセリフも、十年前なら許されたが、いまは編集者からNGが入る場合が多い。
前者は女性が水商売で働いていることを蔑視(べっし)し、後者は女性そのものを蔑視しているというのが理由だ。
『男尊女卑のキャラクターのセリフだから、女性を蔑視した発言になるのは当然だよ。現実に、こういうことを言う奴はいっぱいいるじゃん。たとえばさ、差別主義者のキャラクターが、差別的なセリフを言わなかったらおかしくない?』
日向は、あるとき編集者に思いの丈(たけ)をぶつけた。
『日向さんのおっしゃることはわかりますし、その通りだと思います。僕達も矛盾を感じています。でも、上の人達は少しでもコンプラにひっかかりそうな表現は、受けつけてくれなくて……』
『コンプライアンスに敏感になり過ぎて、小説が現実に負けているような物語しか書けなくなるのは悲劇だよ』
『小説が現実に負けている……ですか?』
『そう。現実にいる殺人鬼を超える殺人鬼を、現実にいる変態を超える変態を、現実にいるろくでなしを超えるろくでなしを書くのが小説の醍醐味だろ? 実在する人物の何割減のキャラクターしか登場しない小説なら、ドキュメンタリー作品を読んだほうがましだよ』
最近、出版社から言われたNGワードで日向が驚いたことは、ほかにもある。
婦人警官、看護婦、OL、女子アナなどの表現は、職業的に男女の区別をしてはならないという理由から、待ったがかかるようになったことだ。
十年前に比べて、小説だけでなくドラマや漫画の規制も厳しくなった。
日向が時代の変化に戸惑っているのは、コンプライアンスだけではない。
作品のページ数が少なくなっているのも、出版社の意向だ。
理由としては、一九八〇年代から一九九〇年代までは、原稿用紙千枚以上の二段組みで、文字がびっしり入った分厚い単行本が売れる傾向にあったが、平成に入ってからは三百、四百枚程度の薄い小説が読者に好まれるようになったということだ。
日向は執拗な描写と徹底的に掘り下げて書き込むスタイルが支持されて売れた作家なので、とくに黒日向作品の読者は分厚い小説に満足感を得ていた。
ライトノベルの作家と違い、日向がこれまでの半分くらいの厚さの小説を出せば、手を抜いたという印象になってしまうのだ。
印象だけではなく、現実に日向の持ち味は長編小説にあった。
陸上でたとえれば、短距離走ではなく長距離走でこそ実力を発揮できるタイプだった。
日向は雑念を振り払い、執筆に集中した。
「おじさ~ん。DVDを観(み)てるかぁ? あんたさ、中学生の頃に小学生のガキを殺して生首を教会にさらしたんだってぇ? すげえサイコパスじゃん……っつうかさ、変態ってやつ? 俺らはさ、この前まで女子高生を部屋に一ヶ月監禁して五人で輪姦しまくってさ、飽きたからライターで髪の毛と陰毛を焼いてから、みんなで殴り殺したんだよ。ギャルとセックスして殺すならわかるけどさ、ガキを殺してなにが面白いの? あ! もしかして、おじさんって少年愛者ってやつ? キモキモキモ!」
豚マスクが、大きく手を叩いて笑った。
「ガキが好きなおじさんのためにさ、俺らが楽しい殺しかたってやつを教えてあげるよ。これから、妊娠六ヶ月のあんたの嫁さんと、五歳の娘を親子丼で頂いちゃうからさ。ティッシュの用意は済んだか?」
ディスプレイ越し――豚のマスクを被った全裸の少年が、小馬鹿にしたように言った。
豚マスクの背後のベッドでは、全裸の妻が狼マスク、兎マスク、犬マスク、猫マスクの四人に手足を押さえつけられていた。
ベッドの脇では、幼い少女がやはり全裸で椅子に縛りつけられていた。
「おじさ~ん、まだ俺のおちんちんふにゃふにゃだからさ~、娘さんにフェラしてもらってカチカチになったら、腹ボテの奥さんにぶち込むからさ~」
豚マスクは笑いながら言うと、少女の鼻を摘(つま)んだ。
少女が空気を貪るように口を開けた瞬間に、豚マスクがペニスを捻(ね)じ込んだ。
直人(なおと)はDVDを消した。
見るに堪えなかった。
妻や娘が虐(しいた)げられる姿を見るのが、つらいわけではなかった。
できれば、見ていたかった。
直人の再来と言われた「墨田区セメント詰め殺人事件」の犯人たちが、どんなふうに妻や少女を殺すのか?
失望した。
彼らは、欲望を果たすだけの単なる性犯罪者に過ぎなかった。
彼らの行為には、芸術性も創造性もない。
盛りのついた少年たちの輪姦ショーに興味はなかった。
直人は拳を握り締め、歯ぎしりした。
こんな陳腐で稚拙(ちせつ)な殺害法しかできない少年グループが自分の再来とは……。
これ以上の侮辱、屈辱はなかった。
直人はリモコンを手に取り、室内に流れるジュゼッペ・ヴェルディのオペラ『椿姫(つばきひめ)』のヴォリュームを上げた。
直人はリクライニングチェアの背凭(せもた)れに深く身を預け、眼を閉じた。
瞼(まぶた)の裏に思い浮かべた。
直人なら、妻と娘の尊く神聖な魂をどう汚(けが)すかを……。
日向はキーを打つ指を止め、主人公の直人と同じようにハイバックチェアに深く背を預けて眼を閉じた。
過激な描写、過激なセリフ……コンプライアンスを気にせずに、勢いのまま書いたのは久しぶりだった。
(次回につづく)
執筆部屋に、パソコンのキーを叩く乾いた音が響き渡った。
日向が執筆しているのは、「東京公論新社」での新連載「僕の殺し方のほうが美しい」の第二話だった。
物語は、二〇〇四年に少年八人が一人の少女を監禁、暴行の末に惨殺した「墨田区セメント詰め殺人事件」と、一九九〇年代に神戸の当時中学生の少年が男子児童を殺害し、生首を教会のマリア像の足元に置いた、「神戸少年生首事件」の主人公が対決する黒日向作品だ。
黒日向作品はこの十年間で七作品刊行してきたが、時代とともにコンプライアンスの締め付けが厳しくなり、比喩や描写は初期の頃よりもソフトなものになっていた。
最近の日向は丸くなった。
昔みたいに放送禁止用語や差別用語を連発してくんないかな?
売れっ子作家になったから、イメージを悪くしたくないんだろう。
ページが薄くなったのは連載が増えたから忙しくなって、やっつけになったんじゃないの?
インターネットの読者の感想スレッドでも、日向が守りに入った、白作品の読者の眼(め)を意識して柔らかい文章になった、などの声が多く上がるようになった。
放送禁止用語や差別用語を使わなくなったのは、イメージアップが目的なのではなく、単純に出版社がコンプライアンスに雁字搦(がんじがら)めにされているからだ。
たとえば、「水商売の女は信用できねえんだよ!」「女はおとなしく飯でも作ってりゃいいんだよ!」という男尊女卑の男のセリフも、十年前なら許されたが、いまは編集者からNGが入る場合が多い。
前者は女性が水商売で働いていることを蔑視(べっし)し、後者は女性そのものを蔑視しているというのが理由だ。
『男尊女卑のキャラクターのセリフだから、女性を蔑視した発言になるのは当然だよ。現実に、こういうことを言う奴はいっぱいいるじゃん。たとえばさ、差別主義者のキャラクターが、差別的なセリフを言わなかったらおかしくない?』
日向は、あるとき編集者に思いの丈(たけ)をぶつけた。
『日向さんのおっしゃることはわかりますし、その通りだと思います。僕達も矛盾を感じています。でも、上の人達は少しでもコンプラにひっかかりそうな表現は、受けつけてくれなくて……』
『コンプライアンスに敏感になり過ぎて、小説が現実に負けているような物語しか書けなくなるのは悲劇だよ』
『小説が現実に負けている……ですか?』
『そう。現実にいる殺人鬼を超える殺人鬼を、現実にいる変態を超える変態を、現実にいるろくでなしを超えるろくでなしを書くのが小説の醍醐味だろ? 実在する人物の何割減のキャラクターしか登場しない小説なら、ドキュメンタリー作品を読んだほうがましだよ』
最近、出版社から言われたNGワードで日向が驚いたことは、ほかにもある。
婦人警官、看護婦、OL、女子アナなどの表現は、職業的に男女の区別をしてはならないという理由から、待ったがかかるようになったことだ。
十年前に比べて、小説だけでなくドラマや漫画の規制も厳しくなった。
日向が時代の変化に戸惑っているのは、コンプライアンスだけではない。
作品のページ数が少なくなっているのも、出版社の意向だ。
理由としては、一九八〇年代から一九九〇年代までは、原稿用紙千枚以上の二段組みで、文字がびっしり入った分厚い単行本が売れる傾向にあったが、平成に入ってからは三百、四百枚程度の薄い小説が読者に好まれるようになったということだ。
日向は執拗な描写と徹底的に掘り下げて書き込むスタイルが支持されて売れた作家なので、とくに黒日向作品の読者は分厚い小説に満足感を得ていた。
ライトノベルの作家と違い、日向がこれまでの半分くらいの厚さの小説を出せば、手を抜いたという印象になってしまうのだ。
印象だけではなく、現実に日向の持ち味は長編小説にあった。
陸上でたとえれば、短距離走ではなく長距離走でこそ実力を発揮できるタイプだった。
日向は雑念を振り払い、執筆に集中した。
「おじさ~ん。DVDを観(み)てるかぁ? あんたさ、中学生の頃に小学生のガキを殺して生首を教会にさらしたんだってぇ? すげえサイコパスじゃん……っつうかさ、変態ってやつ? 俺らはさ、この前まで女子高生を部屋に一ヶ月監禁して五人で輪姦しまくってさ、飽きたからライターで髪の毛と陰毛を焼いてから、みんなで殴り殺したんだよ。ギャルとセックスして殺すならわかるけどさ、ガキを殺してなにが面白いの? あ! もしかして、おじさんって少年愛者ってやつ? キモキモキモ!」
豚マスクが、大きく手を叩いて笑った。
「ガキが好きなおじさんのためにさ、俺らが楽しい殺しかたってやつを教えてあげるよ。これから、妊娠六ヶ月のあんたの嫁さんと、五歳の娘を親子丼で頂いちゃうからさ。ティッシュの用意は済んだか?」
ディスプレイ越し――豚のマスクを被った全裸の少年が、小馬鹿にしたように言った。
豚マスクの背後のベッドでは、全裸の妻が狼マスク、兎マスク、犬マスク、猫マスクの四人に手足を押さえつけられていた。
ベッドの脇では、幼い少女がやはり全裸で椅子に縛りつけられていた。
「おじさ~ん、まだ俺のおちんちんふにゃふにゃだからさ~、娘さんにフェラしてもらってカチカチになったら、腹ボテの奥さんにぶち込むからさ~」
豚マスクは笑いながら言うと、少女の鼻を摘(つま)んだ。
少女が空気を貪るように口を開けた瞬間に、豚マスクがペニスを捻(ね)じ込んだ。
直人(なおと)はDVDを消した。
見るに堪えなかった。
妻や娘が虐(しいた)げられる姿を見るのが、つらいわけではなかった。
できれば、見ていたかった。
直人の再来と言われた「墨田区セメント詰め殺人事件」の犯人たちが、どんなふうに妻や少女を殺すのか?
失望した。
彼らは、欲望を果たすだけの単なる性犯罪者に過ぎなかった。
彼らの行為には、芸術性も創造性もない。
盛りのついた少年たちの輪姦ショーに興味はなかった。
直人は拳を握り締め、歯ぎしりした。
こんな陳腐で稚拙(ちせつ)な殺害法しかできない少年グループが自分の再来とは……。
これ以上の侮辱、屈辱はなかった。
直人はリモコンを手に取り、室内に流れるジュゼッペ・ヴェルディのオペラ『椿姫(つばきひめ)』のヴォリュームを上げた。
直人はリクライニングチェアの背凭(せもた)れに深く身を預け、眼を閉じた。
瞼(まぶた)の裏に思い浮かべた。
直人なら、妻と娘の尊く神聖な魂をどう汚(けが)すかを……。
日向はキーを打つ指を止め、主人公の直人と同じようにハイバックチェアに深く背を預けて眼を閉じた。
過激な描写、過激なセリフ……コンプライアンスを気にせずに、勢いのまま書いたのは久しぶりだった。
(次回につづく)