第51話 相変わらずマイペースな磯川と久しぶりに会うが

文字数 2,312文字

 誰にも媚(こ)びず、長い物に巻かれず、あくまでマイペースを貫く……磯川は、昔となにも変わっていなかった。
 嬉(うれ)しい気持ちと、複雑な気持ちが交錯した。
 自分らしさを貫く磯川に引き替え、自分は……。
「わざわざ大阪にまできて僕に話があるというのは、なんでしょう?」
 磯川が訊ねてきた。
「『絶対犯罪』は読んでくれた?」
 日向は本題を切り出した。
「もちろん、読みましたよ」
「お互い時間がないから単刀直入に言うけど、あの小説を出したことを後悔しているんだ」
 日向はオブラートに包まずに本音を口にした。
 磯川とは、腹を探り合うような関係ではなかった。
「どうしてですか?」
「訊かなくても、本当はわかっているよね?」
「表現がソフトとか、そういう問題ですか?」
 磯川が表情を変えずに質問を返してきた。
「やっぱり、わかるよね。そりゃそうだ」
 日向はため息を吐いた。
「勘違いしないでください。僕は、そのことを悔いてるんだろうなと思っただけで、なぜ日向さんが『絶対犯罪』を出版したことを後悔しているのかはわかりません」
 磯川が、淡々とした口調で言った。
「描写や比喩がソフトになったことで、やっつけ仕事だとネットにも書き込まれて……」
「やっつけなんですか?」
「やっつけじゃないよ。いつも通り、一言一句に魂を込めて書いたつもりだ。ただ、差別用語や放送禁止用語は意識して書かないようにしたって事実もあるからさ」
 日向は、ふたたびため息を漏らした。
「どうして、そうしたんですか?」
 磯川が質問を重ねてきた。
「書店や『日文社』にクレームが殺到しているので、表現をもう少しソフトにしてほしいということを早瀬君に頼まれたんだよ」
「どうして要求を飲んだんですか? 日向さんは、納得できないことは突っ撥ねるタイプでしょう?」
「最初は突っ撥ねたよ。日向誠らしさを削るくらいなら、今後『日文社』では書かない……何度も口に出かけたよ。でも、思い留まったのは、磯川君ともう一度仕事をするためさ。けど、作品は生涯残ってしまう」
 日向は、包み隠さず本音を口にした。
「一つ、訊いてもいいですか?」
 日向は頷いた。
「日向さんが後悔しているのは、実売がいままでの作品より低かったからですか?」
「いや、数字は関係ない。一方で、黒日向ファンの読者の『絶対犯罪』への答えなのかな、とも思う」
「であれば、早瀬君の申し出を断るべきだったと思います」
 磯川がきっぱりと言った。
「それじゃ、磯川君が戻ってきても仕事ができないじゃん」
「それでもです。僕は、『絶対犯罪』がやっつけだとは思っていませんし、いい作品に仕上がっていると思います。日向さんは描写や比喩に差別用語や放送禁止用語を意識して使わなかったことに罪悪感を覚えているようですが、それで作品のクオリティが下がっているとは思えません。ですが、原作者自身がポリシーを曲げたことを気にして『絶対犯罪』を出版したことを後悔しているのならば、それは作品にとっても不幸なことですから」
「作品にとって不幸なこと?」
 日向は、磯川の言葉を鸚鵡(おうむ)返しにした。
「ええ。たとえやっつけであっても、日向誠の名前で書店に並ぶ作品は日向さんの子供です。テストの成績が悪かったり運動音痴だったりする子供は、不良品ですか?」
 磯川が、日向に訊ねてきた。
「いや」
「ですよね。『絶対犯罪』も同じ、日向さんの大切な子供です。描写や比喩をソフトにしたから、売れ行きが悪かったからといって親が気に病めば子供が不憫(ふびん)です。であれば、最初から子供を生まないほうがいいのです。私が、後悔しているなら『絶対犯罪』を出版すべきではなかったと言ったのは、そういう意味です」
 磯川の言葉が、胸奥(きょうおう)に染み渡った。
 不意に、涙が込み上げた。
 日向は人差し指と親指で鼻梁を摘み、涙をごまかした。
 自分本位の考えだった。
『絶対犯罪』を出版する最終的な判断を下したのは、ほかならぬ日向自身なのだ。
「やっぱり、大阪まできてよかった。磯川さんの話を聞いて、胸のもやもやが晴れたような気がするよ」
 日向は、心からの言葉を口にした。
「僕は真実を言っただけですよ。日向さんの作品は、どれも素晴らしい出来で恥じることも悔いることもありませんから」
 磯川が口元を綻(ほころ)ばせた。
「ありがとう。そう言ってくれるのは、君だけだよ。相談ついでに、もう一ついいかな?」
「もちろんです。僕の考えでよければ、お話します。どんな相談でしょう?」
「『願い雪』がミリオンセラーになったことの弊害っていうのかな」
「弊害ですか?」
「うん」
 二匹目のドジョウを狙って白日向作品のオファーを出してくる出版社が多くなっていること、黒日向作品であっても恋愛要素や感動要素を入れてほしいとお願いしてくる編集者が多くなっていること……日向は、いま抱えている悩みを語り始めた。
 磯川は日向の話を聞いている間、居眠りでもしているかのように眼を閉じていた。
「正直、いまの立場なら断ることもできるけど、極力、編集者の意を汲みながら期待以上の作品を上梓したいっていうのが俺のスタイルだからさ」
「日向さんは、サービス精神が旺盛ですからね」
 磯川が眼を開け、微笑(ほほえ)みながら言った。
「まあ、『願い雪』が百万部も売れたから、ウチもウチも、ってなる気持ちも、黒日向作品に白日向作品の要素を入れてほしいって気持ちもわかるんだけどね」
 日向はため息を吐き、コーヒーカップを口元に運んだ。

(次回につづく)

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