第23話 磯川のもとを訪れた日向は、彼が手がけているゲラを見て驚いた

文字数 3,421文字

 そこまで僕のことを考えて頂いて、申し訳ありません。
 
この場合は補助動詞なので、頂いて、ではなく、いただいて、と平仮名になります

 僕は汚名挽回を誓った。
 
汚名挽回ではなく、汚名返上、名誉挽回ではありませんか? 

 次の舞台の主役? 駆け出しの僕なんか、役不足です。
 
役不足とは、①俳優などが与えられた役に満足しないこと。②能力にたいして、役目が軽すぎること。※「大辞林 第三版」という意味で、主人公のセリフのように自分の力量を遜る意味で用いるのは誤りです。力不足では?

何時間考えてもいいアイディアが浮かばず、僕達は煮詰まってしまった。

煮詰まるの本来の意味は、十分に議論、相談などをして結論が出る状態になる、です。行き詰まって、では?

 まず最初に選ばれたのは、水川君だった。

 この場合のまずと最初は重複表現、重言(じゅうごん)です。まず選ばれたのはor最初に選ばれたのはトカ?

 君ははっきり断言したじゃないか!?

 この場合のはっきりと断言は重言です 君ははっきり言ったor君は断言した 

 それは、思いがけないハプニングだった。

 この場合の思いがけないとハプニングは重言です 思いがけない出来事だったorハプニングだったトカ?

 一番ベストなのは、僕が彼に主役を譲ることなのかもしれない。

 この場合の一番とベストは重言です 一番いいのはorベストなのはトカ?

「これ、どうぞ」
 さっきの若い編集者が、日向にミネラルウォーターのペットボトルを差し出してきた。
「ありがとうございます」
 日向は礼を言いながら、ペットボトルを受け取った。
「あっ、またやってる……」
 デスクの上のゲラを見た、編集者の顔が強張った。
「重言は、うっかりやっちゃうんですよね。俺も気をつけないと」
 日向は苦笑しながら言った。
「こんなに赤を入れたら、激怒する作家さんもいるんですよ」
「でも、赤を入れてある箇所は誤用や誤字なので仕方ないですよね?」
「それはそうですけど、磯川の場合はストレートに指摘し過ぎるというか容赦(ようしゃ)ないというか……もっと、オブラートに包んだ指摘したらいいのに」
 編集者が困惑した表情で言った。
「誰の作品……え! 噓(うそ)!」
 ゲラの表紙を見た編集者が、青褪(あおざ)めた顔で声を上げた。
「どうしたんですか?」
 日向は訊ねた
「これは、大和田(おおわだ)先生の原稿です……」
 編集者が震える声で言った。
「大和田先生って、大和田泰造(たいぞう)さんですか?」
 日向の問いかけに、編集者が頷いた。
 大和田泰造は新作を出せば最低二百万部は売れる、日本一出版社を稼がせる作家だ。
 発売二ヶ月前から五十万部の予約が入るという、モンスター級の人気作家だ。
「たしかに大和田泰造さんは人間国宝のような偉大な作家ですが、間違いは間違いですよね?」
 磯川が大和田泰造の担当編集者だということには驚いたが、彼が間違ったことをやっているとは思わない。
「大和田先生は、そういうレベルでは語れない神様です。もし、大和田先生の機嫌を損ねて二度と『日文社』では書かないと言われてしまったら、その損失は計り知れません。大和田先生の定価二千円の作品が刊行されれば、人件費や制作費、印刷代などの必要経費を除くと、約四億円の利益が出るんですよ? 四億のために誤用や誤字に目を瞑(つむ)るのはあたりまえでしょう」
「谷(たに)君、君が詐欺師なら、その考えも一理あると思うよ」
 磯川が編集者……谷に言いながら、デスクに歩み寄ってきた。
「え? どういう意味ですか?」
 谷が磯川に訊ねた。
「君は編集者だろう? 編集者がお金を払ってくれる読者に誤用や誤字だらけの出版物を確信犯で売るというのは、詐欺師と同じだ。作家さんにも、恥をかかせることになる」
 磯川が淡々と言いながら、デスクチェアに座った。
「先輩の言っていることは正論ですよ。でも、四億……いえ、二作書いて貰えれば八億、三作で十二億になります。些細(ささい)な間違いに目を瞑るには、十分過ぎる利益じゃないですか」
「編集者にとって大切なのは、良質な作品を読者に提供することだ。利益を得たいからって傷物の果物を売り続けたら、悪評が広まりそのうち客が離れてしまう」
 磯川がゲラチェックを再開しながら言った。
「傷物って……大和田先生と果物を一緒にしないでくださいっ。いいですか? 日本文学界の至宝の大和田泰造先生を敵に回す……」
「敵に回すんじゃなくて、大和田さんのイメージを守るのさ」
 磯川が涼しい顔で言いながら、ゲラに赤ペンを走らせ始めた。
「僕は先輩のことを心配してるんですよっ。大和田先生を怒らせて原稿を頂けなくなったら……いえ、版権を引き揚げるなんてことになったら、間違いなく先輩はクビです! お願いですから、今回だけは目を瞑ってくださいっ」
 谷が悲痛な表情で、磯川に懇願(こんがん)した。
「大事な作家さんの作品に、傷があると知りながら、世に出すことはできない。押し切られて仮にそのまま出すことになっても、進言するのは編集者として最低限の役目だ」
 磯川が赤ペンを持つ手を止め、谷を見据えた。
「そもそも、過去の版元も含めて大和田さんにたいして原稿の間違いを指摘できず、裸の王様にしたからこういうことになったんだ。百部しか売れない作家でも百万部売れる作家でも、誤用、誤字は指摘しないといけない……いや、百人にしか読まれない作品より百万人に読まれる作品だからこそ、なおさら間違いは正しておかなければならない。怒らせたら大変なことになると腫(は)れ物に触るようにした結果、最終的に恥をかくのは大和田さん自身だからな。話は以上。日向さんに書店用にサインして貰うから、君は席に戻ってくれ」
 磯川が谷に興味を失ったようにゲラに視線を戻した。
 頑ななところはあるが、日向は磯川と同意見だった。
 作家の名前で作品が出る以上、最終的に傷つくのは大和田なのだ。
 とはいえ、谷が慌てて磯川に翻意(ほんい)を促す気持ちもわかる。
 あれだけの大作家の原稿を指摘で真っ赤にすれば、上司を巻き込んで大事になるのは目に見えている。
 当然、上司は大和田側につくだろう。
 それでも信念を曲げないだろう磯川を、日向は誇りに思った。
 そして、彼のもとでデビューした選択が間違っていなかったことを再認識した。
「お恥ずかしいゴタゴタをお見せしてしまい、申し訳ありませんでした。ミーティングルームに移りましょう」
 磯川がゲラを抽出(ひきだし)にしまい、日向を笑顔で促した。
                      


 ミーティングルームのロングデスクには、サイン本用の『フィクサー貴族』が山積みになっていた。
「三百冊あるので大変ですけど、それだけ書店が『フィクサー貴族』に期待している証(あかし)ですから」
 椅子に座る日向のテーブル越しに立った磯川が、一冊目の本の表紙を開きながら言った。
「筋トレで鍛えてますから、大丈夫です」
 日向は笑顔で力こぶを作ってみせた。
「それは頼もしい。ここにサインしましょう。紙が黒なので、マーキングペンは白、金、銀を用意しました。お好きな色を使ってください」
 開いた表紙を左手で押さえた磯川が、本文のページの前にある見返しと呼ばれる厚めの黒い紙を右手で軽く叩いた。
「百冊ずつ違う色を使う感じでもいいですか?」
 日向は訊ねた。
「あ、いいですね! 最初は何色でいきますか?」
「俺の髪色と同じでいきます」
 日向は金色のマジックを手にした。
 十冊目くらいまでは緊張で硬いサインになってしまったが、それ以降は無駄な力が抜けてのびのびと書けるようになった。
「『フィクサー貴族』がデビュー作を超える売れ行きで、安心しました。二作目で部数が落ちる作家さんのほうが多いですから。『阿鼻叫喚』で日向中毒になった読者が大勢いるという証ですね」
 磯川が嬉しそうに言った。
 さっきの、谷にたいする厳しい磯川とは別人のようだった。
「ありがたいですね。でも、風間さんと東郷さんの新刊にはダブルスコアの差をつけられているで、早くぶち抜きたいところです」
 日向は語気を強めた。

(次回につづく)

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