第53話 純文学系の出版社からの依頼を受け、今まさに新刊が!

文字数 3,136文字

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「ようやく、半分まできました。あともう一息です。頑張ってください」
「大星堂(だいせいどう)書店」八重洲(やえす)本店の会議室――岸(きし)が物腰柔らかな口調で言いながら、七十五冊目の『夢の残り香(が)』の見返しを開いた状態で、ロングテーブルを前にして座る日向にむけて置いた。
 一時間後の午後三時から、『夢の残り香』のサイン会が始まる。
 いまサインしているのは、サイン会をしない「大星堂書店」の支店に送るためのものだ。
「激励ありがとう!」
 日向は岸に笑顔を向けた。
 著書にサインをしているときに、編集者に励まされるのは初めてのことだった。
 岸はエンターテインメント系の出版社の編集者とは雰囲気が違った。
 日向はデビュー十七年目にして、初めて純文学系の出版社である「古都(こと)書房」で作品を刊行した。
 たとえるならば、わかりやすく派手なハリウッド映画的な作品を扱うのがエンターテインメント系の出版社で、難解で私小説ふうのフランス映画的な作品を扱うのが純文学系の出版社だ。

『「阿鼻叫喚」と「願い雪」を読んだときに、私は度肝を抜かれました。これまでにも数多くの作家さんの小説を読み、作品作りに関わってきましたが、日向先生のような方は初めてでした。こんなにも真逆な世界観……真逆な登場人物を描けるものだろうか? もしかして、日向誠という人は二人、いや、複数いるのかもしれない……などと、真剣に考えてしまいました』
 二年前――都内のホテルのラウンジで、純文学とは対極の作風の日向にオファーしてきた理由を話す岸に違和感を覚えた。
 エンタメ系出版社の編集者がフランクな印象なのにたいし、岸は慇懃(いんぎん)で言葉遣いが丁寧だった。
 当時の岸は四十五歳の日向より六歳下の三十九歳だったが、眼鏡(めがね)をかけた色白の細面(ほそおもて)の顔は、二十代の文学青年と紹介されたら信じたかもしれない。
 容貌や言動以外では、作品についての印象を語るエンタメ系の編集者にたいし、岸はなぜこの作品を書こうと思ったのかという日向の内面に興味を示した。
『私が推察するに、日向先生は作品を通じて、この世に善人も悪人も存在しないということを訴えているような気がします。つまり、善人と言われている人が嫉妬(しっと)から友人の失敗を心で願ったり、悪人と言われている人が捨てられていた子猫に牛乳を与えたり……。その意味で、「阿鼻叫喚」の主人公も「願い雪」の主人公も、ふとしたきっかけで善悪入れ替わる可能性は十分にある……日向作品を読んでいると、日向先生の心の声が聞こえてくるようです』
『ありがとう。でも、俺に君が求めている純文的な作品が書けるかな?』
『これだけの幅広いジャンルを書いてきた日向先生なら、純文学も十分に書けるでしょう』
『またまたありがとう。評価してくれて嬉(うれ)しいけど、正直、純文に興味はないな。嫌いじゃないけど、いまは食べたくない料理って感じかな』
『私も、日向先生に純文学を書いてほしいと思って、声をかけさせていただいたわけではありません』
『え? じゃあ、なんで?』
『日向先生に、純文学を壊してほしいんです』
『純文学を壊す!?』
『はい。私は日向先生とともに、新しい純文学を作り上げたいと思ってます』
 
 日向が畑違いの純文学系の出版社での執筆を決めたのは、岸の最後の言葉だった。
 それまでは別世界だと感じ、純文学を書きたいと思ったことはなかった。
 売り上げは二の次で、己の内面を掘り下げ、登場人物に投影することを目的としている純文学のスタイルが、日向にはどうしても合わなかった。
 作風が合わないというよりも、売れ行き度外視の精神が理解できなかった。
 いくら高尚な文学でも、商業出版物である以上は利益を生み出す義務がある。
 岸が口にした新しい純文学とは、エンタメ小説と純文小説の融合した作品だった。
『夢の残り香』は、一人の少女がトップ女優になるという夢を叶(かな)えるために熊本から上京し、欲望と悪意が渦巻く芸能界で伸(の)し上がり、夢を叶えるのと引き換えに枕営業や美容整形手術を繰り返し、アイデンティティが崩壊してゆくという物語だった。
 エンタメ系の出版社でも芸能界ものは書いたが、これまでとの違いは結末をはっきりさせないことだった。
 エンタメ小説の場合は、ハッピーエンドであろうがバッドエンドであろうが読者に結末が伝わるように書くが、『夢の残り香』では敢(あ)えて読者に判断を委(ゆだ)ねるような終わらせ方にしていた。
「私の中でのエンタメ小説と純文学の決定的な違いは、ラストですっきりさせるか、ぼかして読者に委ねるかだと思っています……最初に会ったときに、岸君はそう言ったよね?」
 日向は、サインをしながら思い出したように訊(たず)ねた。
「よく覚えていらっしゃいますね。光栄です」
 岸が口元を綻(ほころ)ばせ、サイン済みの本を受け取り、見返しに合紙(あいし)を挟んだ。
「いまでも、そう思ってる?」
 日向は訊ねた。
「はい……と言いたいところですが、『夢の残り香』を読んで、わからなくなりました」
「どういうこと?」
「日向先生の小説は、ジェットコースター小説と言われているように、最初から一気に物語に引き込まれ、最後まで息を吐(つ)く間もなくページを捲(めく)ってしまいます。日向先生の小説に出てくるキャラクターは、主役から脇役まで力があるというのがその理由だと思います。正直、結末をぼかすとかぼかさないとか、そういうことはどうでもいいと思えました」
 岸が、一言一言、嚙(か)み締めるように言った。
「最高の誉め言葉だよ。でも、俺がそんなふうに言ってもらえる作家になれたのも、ある編集者のおかげだよ」
 日向は、マジックを走らせる手を止めた。
「ある編集者って、どなたですか?」
「そうだなぁ……俺を小説家にしてくれた編集者であり、恩人であり、そして友人かな」
 日向は、しみじみとした口調で言った。
「日向先生にそんなふうに言ってもらえるなんて、編集者冥利(みょうり)に尽きますね。日向先生のデビューは『日文社』でしたよね? その方はいまも、『日文社』にいらっしゃるんですか?」
「いや、辞めたよ。いまは、ほかの出版社にいる」
 日向は眼(め)を閉じた。 
 十七年前――東郷真一の一件で、磯川は日向と「日文社」を守るために大阪の映像制作会社「日文映像」に移籍した。
 磯川は十二年前に東京に戻り、ふたたび編集者となった。
 だが、彼が選んだのは「日文社」ではなかった。
「日文映像」で制作した『陽はまた沈む』が大ヒットしたことで、原作者の東郷が「日文社」の局長に、磯川を担当編集者にしたいから呼び戻してほしいと直訴(じきそ)した。
 磯川を「日文社」から追い出した張本人からの申し出、しかもVIP待遇で迎えてほしいという東郷の要求に、局長は編集長の椅子(いす)を用意していた。
 局長は、東郷の要求に押し切られたわけではない。
当時の文芸第三編集部は史上最低の売り上げを記録し、磯川の件とは関係なしに編集長の交代が検討されていた。
 だが、日向にはわかっていた。
 磯川が、「日文社」に戻らないということが。
『一つだけ言えることは、僕が日向さんの担当編集者に戻ることはありません』
 磯川は言葉通り、「日文社」には復帰せずに「夏雲舎(なつぐもしゃ)」という小さな絵本専門の出版社に転職した。
 そして、この十二年間、磯川には会っていなかった。

(次回につづく)

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