第25話 大ヒット作『フィクサー貴族』が夫婦関係に冥い影を落とす……

文字数 3,147文字

 自分のことを思ってくれている……真樹の気持ちは嬉しかった。
 同時に、日向には妻に自分の作品を受け入れて貰えない複雑さがあった。 
「なにこれ……」
 真樹の顔が強張った。
「どうした……」
 ノートパソコンのディスプレイを覗き込んだ日向は、言葉の続きを失った。 
 
 グレート・デンに犯されるなんて、ありえないでしょ?
 この人、犬嫌いなんだろうね。
 日向って、絶対に変態だよね。じゃなきゃ、獣姦とか書かないって。 

「誠……こんな話、本当に書いたの?」
 真樹がディスプレイをみつめたまま、うわずった声で訊ねてきた。
「ああ。なんで?」
 訊かなくても、わかっていた。
 真樹の言わんとしていることを……なににショックを受けているかを。
 だが、平然とするしかなかった。
 小説家として生きていくと決めたからには……。
「なんで? じゃないでしょう!」
 真樹がディスプレイから日向に視線を移した。
「グレート・デンの件?」
 観念して日向は訊ねた。
 日向が妥協しない以上、避け続けられる問題ではなかった……また、妥協する気もなかった。
「『阿鼻叫喚』みたいな内容の物語は、書かないでほしいと言ったよね?」
 真樹の口調は物静かだったが、日向をみつめる目は笑っていなかった。
「書かないとは言ってないだろう?」
 日向も穏やかな口調で言った。
「それ、本気で言っているの? 今回の小説は、『阿鼻叫喚』よりひどいみたいじゃない? グレート・デンだなんて……ネットを見てないの? 千件以上、非難するコメントが上がっているのよ?」
 真樹の声は震えていた。
 わかるような気もする。
 自分の夫が、ヤクザに拉致(らち)されてグレート・デンに犯される物語を書いている作家だと親や友人に知られたら、合わせる顔がなくなるだろう。
「売れてない小説ならバレないけど、十万部以上のベストセラーになって、テレビや雑誌にも取り上げられて……私の気持ちを考えたことあるの? 周りから訊かれたときに、なんて答えればいいの?」
 本当は叫びたいのだろうが、真樹は必死に感情を抑えていた。
 日向が悪いことをやっているわけではないと、わかっているからだ。
 そして、心の底では日向の成功を共に喜びたいと誰よりも思ってくれている。
「千人の中には、褒めてくれている人もいるだろう? それに、叩いてくる人も含めて俺はファンだと思っている」
 日向もまた、真樹に優しい言葉をかけてやれなかった。
 真樹の頼みを聞くことは即ち、日本一下劣で凶悪な小説を書く作家として認知されつつあった日向誠の個性を殺すことになるからだ。
「わかった」
 押し殺した声で言うと、真樹が席を立った。
 あまりにもあっさり引き下がる真樹に、日向の胸に嫌な予感が広がった。
「なにがわかったんだ?」
「誠は読者のことは考えるけど、私の立場はどうなってもいいってことよ」
 真樹が無表情に日向を見下ろした。
 必死に平静を装っているが、真樹の瞳は寂しげに揺れていた。

 俺が悪かった。次からはもっとソフトに書くから。

 たったそれだけの言葉をかけてあげることができたなら……だが、たったそれだけの言葉が口にできないことはわかっていた。
「そんなこと、あるわけないだろう」
「だったら、こういう内容はもう書かないって約束してくれるの?」
 それまでと一転して、真樹が縋(すが)るような瞳で日向をみつめた。 
 いまなら、まだ間に合う。心で思っていることを、口にするだけでいい。
 思いとは裏腹に、日向は無言を貫いた。
「それが誠の答えね」
 真樹が哀しげに言った。
「いや、そういうわけじゃ……」
「もう、いいから。ごめんね。お祝いの言葉もろくに言わずに文句ばっかりで。先にお風呂入ってくるね」
 真樹が、あっけらかんとした口調で言った。
 皮肉でないことは、彼女の顔を見ればわかった。
 感情を封印したのだ。
 昔から、そうだった。
 真樹はネガティヴな感情を引き摺らずに、前に足を踏み出してゆく女性だった。
 ただ、そのたびに心に傷を負っていた。
 封印した感情が、消えるわけではないのだ。
 真樹に笑顔が戻っても、心の闇は深く……。
 思考を止めた。
 闇を取り払ってあげたいなら、作風を変えればいいだけの話だ。
 たったそれだけのことで、真樹の気持ちが楽になるのだ。
 日向はスマートフォンを取り出し、大東(だいとう)のバーに行くと真樹にメッセージを送るとキーと財布を手に席を立った。

「どうしたんだよ? いまやベストセラー作家先生になったんだから、辛気臭(しんきくさ)い顔でビールなんて飲んでないで、景気よくシャンパンでも開けたらどうだ?」
 カウンター越し――大東がウォッカトニックのグラスを傾けながら言った。
「いつもビールだろう」
 日向は素っ気なく言った。
 普段なら冗談や軽口を返すところだが、今夜はそういう気分になれなかった。
 
 いってらっしゃい! 私は明日が早いから先に寝ちゃうね。大東君に、高いお酒ばかり勧めないようにLINEしとくから笑

 なにごともなかったかのような真樹からのメッセージを読み返すたびに、日向の胸は痛んだ。
 あれ以上話を続けると、険悪な雰囲気になり日向の執筆にも影響するだろうと真樹が引いてくれたのだ。
「ご機嫌斜めの顔は、真樹ちゃんが原因だろ?」
 大東が日向のグラスに瓶ビールを注ぎながら言った。
「なんだよ、急に?」
「実は、真樹ちゃんに口止めされているんだが……お前達が取り返しのつかないことになる前に、俺が口の軽い男になってやるよ」
 冗談めいた口調とは裏腹に、大東は真顔だった。
「真樹になにを口止めされているんだ?」
「ご両親が心配しているらしい。親父さんはお前の小説を読んで激怒してるらしいし、お袋さんは寝込んだらしいぜ」
「え……」
 瞬間、日向の思考が止まった。
「娘の旦那の作品だからって、『阿鼻叫喚』を夫婦で百冊くらい買い込んで親戚や職場に配りまくったらしい。不運だったのは、義理の息子の小説を読んだのはみんなに配ったあとだったってことだ」
 大東の言葉の意味が、すぐに理解できた。
 ベストセラー作家になった自慢の義理の息子が、結果的に娘の恥を親戚中に晒(さら)すことになった。
 真樹は両親に相当問い詰められたことだろう。
 なにも知らなかった。
 
 ――俺の小説が個人的に好きじゃないって、はっきり言ったらどうだ?

 個人的感情で日向の作品を否定していると思い、真樹にひどいことを言ってしまった。
 違った。
『阿鼻叫喚』を読んだ父が激怒し、母がショックで寝込んだというのに、そのことを真樹は一言も口にしなかった。
『阿鼻叫喚』が原因で両親や親戚が騒ぎになっていることを伝えると、日向が罪の意識に囚われるかもしれないと心配したのだろう。
 それなのに、真樹の気持ちも知らずに自分は……。
 日向は唇を嚙み締めた――空のタンブラーを握り締める手に力が入った。
「真樹ちゃんの気持ちがわかったなら、こんなところで飲んでないで早く帰ってあげなよ」
 大東が言った。
「いや、いい」
 日向は素っ気なく言うと、手酌で瓶ビールを注いだ。
「いいって、どういう意味だよ?」
 大東が訝(いぶか)しげな顔を日向に向けた。
「なにも聞かずに、今夜は黙って俺につき合ってくれ」
 日向はタンブラーに満たしたばかりのビールを一息に飲み干した。
 言えるわけがなかった。
 両親との間に板挟みになった真樹を、日向が救わないと決めていることなど。

(次回につづく)
 

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み