第39話 言いがかりをつける先輩作家に、磯川が放った奥の手は?

文字数 2,395文字


「ママ! 日向先生をお連れしたよ!」
 羽田が言うと、奥のコーナーソファにいた和服姿の女性が、日向のほうに歩み寄ってきた。
 どこか見覚えのある顔だったが、日向は思い出せなかった。
「いらっしゃいませ。霞(かすみ)と申します」
 和服姿の女性……霞が名刺を差し出してきた。
「日向です」
 名刺を受け取りながら、日向は霞の顔をみつめて記憶を辿(たど)った。
 やはり、思い出せなかった。
「とりあえず、奥のお席にどうぞ」
 霞が踵(きびす)を返し、日向達を促した。
 白革のコーナーソファの奥から、日向、羽田、磯川の順に座った。
「あれ!? 東郷先生じゃないですか!」
 突然、羽田が大声で言いながら立ち上がった。
「おう、羽田君じゃないか。こっちにきて、一緒に飲まないか?」
 日向達の対面のボックスソファに座る東郷が、羽田に手招きした。
 東郷の顔は、真っ赤になっていた。
 東郷の隣には、神田が座っていた。
 和服の女性……思い出した。
 パーティー会場で、東郷と談笑していた女性だ。
「日向先生、一緒にご挨拶に行きましょう」
 羽田がさりげなく日向を促した。
 羽田の唐突な誘い――謎が解けた。
「いえ、俺は遠慮しておきます」
 日向は言った。
「そう言わずに、行きましょう。こんな偶然、滅多にないことですから」
 白々しく言いながら、羽田がふたたび日向を促した。
「いえ、大丈夫ですから。編集長、行ってください」
 日向は頑なに断った。
 パーティー会場で挨拶にこなかった日向に腹を立てた東郷が、羽田に一芝居打たせたのだろう。
「ほんの少しだけでも……」
「もう、いいって。飛ぶ鳥を落とす勢いのベストセラー作家さんだから、俺如きには挨拶なんてしたくないんだろうさ」
 呂律(ろれつ)の回らない東郷が、羽田を大声で遮った。
 どうやら、かなり酔っているようだった。
「俺はあんな二流漫画みたいなものは、小説とは認めんがな。いや、三流だ、三流漫画!」
 東郷が大笑いした。
 日向の全身の血液が熱く滾(たぎ)った――堪(こら)えた。
 ここで日向が問題を起こせば、磯川に火の粉がかかってしまうかもしれない。
「ほら、先生、もう飲み過ぎですよ」
 霞が東郷をとりなした。
「おい、羽田君もそう思うだろう? どうなんだ? お?」
 それでも東郷はおさまらず、羽田に絡み始めた。
「い、いや、わ、私は、そ、そんなふうには……」
 顔を強張らせた羽田が、しどろもどろに否定した。
「なんだお前!? 俺が間違ってるっていうのか!? お!? お前んとこを、どれだけ儲けさせてきてやったと思ってるんだ!? お!?」
 東郷が赤鬼のような顔で立ち上がり、羽田に詰め寄った。
 日向は、膝の上に置いた拳を握り締めた。
 いくら酒に酔っているとはいえ、東郷は行儀が悪過ぎる。
「わ、わかっています。東郷先生には足を向けては……」
「だったら、このホスト崩れの三流漫画を、今後一切『日文社』で出版するな!」
 東郷が日向を指差しながら、羽田に詰め寄った。
 太腿(ふともも)に爪が食い込んだ――堪えた。
 奥歯を嚙み締めた――堪えた。
自分のことならどれだけ侮辱されても、聞き流すつもりだった。
 酔客の絡み酒で事を大きくして、「日文社」や磯川の立場を悪くしたくはなかった。
「おい、どうするんだ!? 今後も三流漫画を出版するなら、東郷真一の全作品の版権を引き上げるぞ! おお!?」
 日向は立ち上がった。
「日向誠と言います。挨拶が遅れてすみませんでした」
 日向は、感情のスイッチをオフにして東郷に頭を下げた。
「なんだ、最初から素直にそうしてればよかったんだよ! 心が籠ってないから、もう一度、きちんと詫びを入れろ」
「もう一度詫びたら、『日文社』から版権を引き上げるとか言わないと約束してください」
 日向は、東郷から言質を取ろうとした。
「ああ、約束してやるから、心を込めて俺に詫びろ」
 東郷が腕を組み、尊大な態度で日向に謝罪のおかわりを要求した。
「挨拶が遅れて……」
「やめてください」
 磯川が、日向を押し退けるようにして前に出た。
「なんだ、お前!? 邪魔する……」
「日向さんの作品を侮辱することは、僕が許しません。逆に、日向さんに謝罪してください」
 磯川が東郷を遮り、厳しい口調で言った。
 予期せぬ展開に、日向は言葉を発することができなかった。
「お、お前、『日文社』の編集者だろう!? 編集者風情が、誰に向かってものを言ってるか……」
「版権を引き上げたいなら、ご自由にどうぞ」
 ふたたび遮った磯川は、冷え冷えとした眼で東郷を見据えた。
「おいっ、磯川君! なにを言ってるんだ! 東郷先生に謝りなさい!」
 血相を変えた羽田が、磯川に命じた。
「いやっ、謝っても無駄だ! こんな侮辱は許せん! 望み通り、版権をすべて引き上げてやろうじゃないか! 後悔するなよ!」
 東郷が磯川を指差した。
「あなたこそ、後悔しないでください。東郷さんの大御所作家らしからぬ言動を、すべておさめさせていただきました。版権を引き上げられた経緯を、ウチの週刊誌で報じますから。動画は、つき合いのある局のワイドショーで扱ってもらいますよ。この動画を見たら、視聴者はどっちに非があると判断するでしょうね」
 磯川が、小型のビデオカメラを掲げながら言った。
「き、貴様っ、盗撮していたのか……」
 東郷が蒼褪(あおざ)めた。
「勘違いしないでください。これは、林田さんのスピーチを撮るために用意したものですから」
 磯川は、淡々とした口調で東郷に言うと振り返り、日向に茶目っ気たっぷりに舌を出した。

 いったい君には、いくつの顔があるんだ?

 日向は、心で磯川に問いかけた。

(次回につづく)

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