第50話 『絶対犯罪』の評判が悪いのは〝らしさ〟がないから?

文字数 1,853文字

日向が譲歩したのは、早瀬(はやせ)のためではない。
いつの日か戻ってくる磯川と、もう一度作品を出すためだ。
早瀬の意見を突っ撥ねて「日文社」に背を向けても、日向に執筆のオファーを出す出版社は引く手数多(あまた)だ。
だが、磯川の代わりはほかにいない。
磯川と仕事をするために、早瀬の提案を呑(の)んで描写と比喩をソフトにしたのだった。
だからといって、スレッドに書かれているようにやっつけではない。
物語はこれまで通りに、面白く書けている自信があった。
ただ、確信犯的に書いていた差別用語や放送禁止用語を控えただけだ。
それでも、日向らしさを自ら殺したのは事実だ。
日向作品の中毒になった読者を失望させてしまったのではないか……それだけが気がかりだった。
日向はノートパソコンをバッグに詰め、立ち上がった。
日向は大きく息を吐き、暗鬱な気分のまま楽屋を出た。

13

 大阪淀屋橋(よどやばし)――「日文映像」の入るビルの一階のカフェで、日向は連載小説を執筆していた。
 試写会から三ヶ月が経っていた。
 映画がヒットしたおかげで、『僕がママを探す旅』は二十万部を突破した。
 小説誌や週刊誌に八本の連載小説を抱え、すべてが順調に運んでいるかのようみえた。
 だが、どれだけ原作映画がヒットしても、連載小説の本数が増えても日向の気分は晴れなかった。
 理由はわかっていた。
『絶対犯罪』の売れ行きだ。
 発売三ヶ月で三万部の実売……普通なら、悪くない数字だ。
 悪くないどころか、ベストセラーと言ってもいい。
 だが、いままでの黒日向作品の売れ行きに比べたら五分の一の数字だ。
 日向節全開の作品でこの数字なら、納得しただろう。
 日向は思考を止め、執筆に専念した。
 月に五百枚は連載小説の原稿を書かなければならないので、少しでも時間があれば一枚でも多く進めたかった。
 いま抱えている八本の連載小説は、恋愛小説が三本、ノワール小説が四本、推理小説が一本だった。
 日向はキーボードに手を置いたまま、眼(め)を閉じた。
 正直、迷っていた。
 昔のように、倫理観も良心も無視した黒日向作品を書くべきか?
 もちろん日向はそうしたかったが、他の出版社が白日向作品の爆発的な売れ行きに眼をつけ、黒日向作品であっても恋愛や感動の要素を求めてくるようになった。
『絶対犯罪』のときのように出版社にクレームが殺到しているという理由ではないものの、これまでの黒日向作品よりソフトにしてほしいとのリクエストは早瀬と同じだ。
「瞑想ですか?」
 日向は眼を開けると、目の前に笑顔の磯川が立っていた。
 スーツ姿の磯川を見るのは初めてだった。
 四年前より、少し痩せたような気がした。
 白かった肌も、こんがりと日焼けしていた。
「久しぶり!」
 日向は立ち上がり、右手を差し出した。
「お久しぶりです。相変わらずのご活躍、拝見しています」
 磯川は言いながら、日向の右手に右手を重ねた。
「とりあえず、座りましょう」
 磯川に促され、日向は着席した。
「わざわざこちらに足を運ばなくても、連絡を頂ければ僕が東京に行きましたよ」
「いやいや、磯川君はロケやらなんやらで忙しいと思ったから。いまも、新作の撮影中だよね?」
 日向は訊ねた。
「よくご存じで。規模は小さいですが、なかなか味のある作品に仕上がっています。来年のカンヌに出品予定です。僕は『ペリエ』をお願いします」
 磯川が、注文を取りにきたスタッフに告げた。
「すっかり、映画プロデューサーになったね」
 日向は複雑な心境で言った。
「そんなに、かっこいいものじゃありませんよ。見ての通りこんな色になって、現場回りの肉体労働ですよ」
 磯川が己の顔を指差し、自嘲的に笑った。
「謙遜しなくていいよ。磯川君のほうこそ、凄い活躍じゃない。東郷さんも、映画が大ヒットしたおかげで原作の重版が三十万部を超えて、大喜びしているらしいよ。共通の編集者に聞いたんだけど、掌返しで、磯川さんを呼び戻して担当にしたいってさ」
 日向は苦笑した。
 東郷は磯川の仕事によって著書が爆発的に売れたのを耳にし、「日文社」の局長に直談判しているらしい。
「罪を憎んで作品を憎まずってやつですよ。僕は、東郷さんに罪悪感を覚えたわけでも機嫌を取ったわけでもありません。単に、『陽はまた沈む』を映像化したら面白そうだなと思っただけです」
 磯川がニコニコ笑いながら言った。

(次回につづく)

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