第52話 磯川の去就が気になる日向だが、彼の口から出たのは

文字数 2,103文字

「それで、日向さんはどうしたいんですか?」
 磯川が訊ねてきた。
「別に白日向作品を書き続けるのは嫌じゃない……っていうか、書き続けるつもりでいたからさ。ただ、割合を間違えたら大変なことになる。白が売れるのは事実だけど、同じような作品ばかり書いたら飽きられる。それに、黒の読者も離れてしまう。黒に白の要素を入れてほしいってリクエストは、さっきの磯川君の話で断る肚(はら)が決まったよ。描写や比喩をソフトにしたから、売れ行きが悪かったからといって親が気に病めば子供が不憫、であれば、最初から子供を生まないほうがいい……痺(しび)れたよ。磯川君も作家デビューすれば?」
 日向は軽口を叩いた。
「いえいえ、とんでもない。長年編集者をやってきて、自分が作家に向いていないことは誰よりもわかっていますから」
「アンド、興味もないんでしょ?」
 日向が言うと、珍しく磯川が声を上げて笑った。
「なんか、こうしていると昔を思い出しますね。日向さんと椛(もみじ)ちゃんの、漫才みたいな軽妙なやり取りを見るのが大好きでした。椛ちゃんは、元気にしてますか?」
「あ、言ってなかったっけ? 椛は九州で主婦をやってるよ」
「え!? 本当ですか!?」
 磯川が驚きの声を上げた。
 日向の連載小説の本数が増え、日に五時間以上を執筆に当てなければならない生活になったので、三年前にタレントのマネジメント業務をやめたのだった。
 無名のタレントしか所属していない「日向プロ」の看板は、日向誠だった。
テレビ局のプロデューサー達も、代表取締役がベストセラー作家だからタレントの売り込みに時間を割いてくれたり、キャスティングしてくれたりしたのだ。
 いまは小説家、脚本家、放送作家などの文化人タレントを作家部門に所属させていた。
 彼らの仕事はタレントのように日向が先頭に立って売り込む必要はないので、オファーの交渉とスケジュールの管理はチーフマネージャーの真理に任せていた。
 椛以外のタレントは、みな、ほかの事務所に移籍して芸能活動を続けていた。
「磯川さんが大阪に行って、もう四年だからさ。椛も今年、二十歳だよ。時の流れは早いね」
 日向は、しみじみとした口調で言った。
「もう、そんなになりますか? 慣れない仕事で余裕がなかったので、あっという間でしたよ」
「磯川さんは、俺のこと恋しくなかったんだね~」
 日向は冗談めかして言った。
「そんなことないですよ。日向さんの活動は、いつも気にしていましたから」 
 磯川が真顔で否定した。
「じゃあさ、そろそろ戻ってくる?」
 日向は軽い感じで訊ねた。
 真剣に切り出して真剣に断られるのが怖かったのだ。
「それより、話を本題に戻しましょう。白日向作品をオファーに任せて、増やしてもいいのかどうかで迷っているんですよね?」
 磯川が話を変えた。
「うまくはぐらかされちゃったな。まあ、その話はまた次の機会にするよ。迷ってるわけじゃなくて、白の本数を増やしたら白の読者が飽きて、黒の読者が離れてゆくことを危惧(きぐ)してるんだよ」
「それは一理ありますね。でも、日向さんなら大丈夫ですよ」
 磯川が楽観的に言った。
「どうしてそう言い切れるの?」
「日向さんは黒作品でも闇金、新興宗教、復讐代行屋、キャバクラっていうふうに、全然テイストの違う作品を書いているじゃないですか。白作品も、同じように違うテイストのものを書けばいいんですよ。だって、恋愛小説ばかりが白作品じゃないわけですから。現に、『願い雪』と『僕がママを探す旅』も恋愛ものと家族ものでタイプが違います。僕は、お世辞でもなんでもなく、日向誠は日本一のオールラウンド作家だと思っていますから」
 磯川が力強く頷いた。
 日向はたとえようもない安堵(あんど)感に包まれた。
「やっぱり、君に相談して正解だったよ」
「来月あたりですかね」
 不意に、磯川が言った。
「なにが?」
 日向は、訝(いぶか)しげな顔を磯川に向けた。
「東京に戻るかどうかを、訊きましたよね?」
「え! 本当!?」
 日向は瞳を輝かせ、声を弾ませた。
「はい」
「よかった。これで、また一緒に……」
「ただし、『日文社』には戻りません」
「え……」
 予想外の磯川の言葉に、日向は絶句した。
「『日文社』に戻らなければ、どこの出版社に行くの?」
 我に返った日向は訊ねた。
「どこの出版社にも行きませんよ。僕は編集者をやめます」
 磯川があっさりと言った。
「や、やめるって……やめてどうするの!? まさか、映像制作会社にでも勤めるわけ!?」
 動揺を隠せず、日向は立て続けに質問した。
「映像制作会社には入りませんよ」
「じゃあ、やめてなにするのさ!?」
「さあ、どうしましょうね」
 のらりくらりと、磯川が日向の質問を躱(かわ)した。
「どうしましょうって……」
「一つだけ言えることは、僕が日向さんの担当編集者に戻ることはありません」
 日向を遮り、一転した口調で磯川が断言した。
「そんな……」
 日向の脳内が真っ白に染まった。

(次回につづく)

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