第62話 読者の心をリサーチしていた、その磯川の言葉に日向は

文字数 3,010文字

 急所を攻撃されたような衝撃――あまりにも核心を突いた言葉に、日向は返す言葉がなかった。
 丸裸にされたような恥ずかしさに、日向はビールを一気に飲み干した。
「なんか、すみません。勝手な解釈をペラペラ喋(しゃべ)ってしまって」
 磯川が、バツが悪そうに言った。 
「いや、あんたは霊能者かい! って突っ込みたくなるほどに、磯川君の分析は的を射てたよ。そう、いつのまにか、新作のテーマを決めるときにマーケティングを意識するようになったのは、俺自身なんだよね。まあ、デビュー当時からそういうところはあったけど、作品数を重ねるごとにエスカレートして、気づいたら作家というよりプロデューサー目線になっていったって感じかな」
 日向は、ふたたび自嘲的に笑った。
「夏目雅子(なつめまさこ)さんのような魅力的な女性を小説に登場させると、四十代以上の読者には刺さりますが、三十代以下の読者にはピンときません。物語に二十代の妻が登場して『ご飯をよそいましょうか?』と夫に訊ねるくだりを読むと、六十代以上の読者は違和感を覚えませんが、五十代以下の読者は、え? っと感じてしまいます」
 唐突に、磯川が言った。
「なになに? 突然」
「物語に比喩として、起死回生の逆転満塁ホームランのようだった、と書かれていたら、昭和生まれには通じてもZ世代には通じません」
「あ、ジェネレーションギャップの話?」
 日向が言うと、磯川が頷いた。
「多くの作家、とくに大御所と言われる作家に多い例です。自分の心に刺さるか刺さらないかを基準に書いているので、ほかの世代の心に刺さるか刺さらないかに意識が回っていない文章が多々見られます。日向さんが二十年近く、七十作以上の作品を生み出し、多くの人に支持されているのは、読者の心をリサーチしているからだと思います」
「読者の心をリサーチ?」
 日向は鸚鵡(おうむ)返しに訊ねた。
「はい。二十代でも五十代でも、同じ定価で本を購入してくれているわけです。たとえば、レストランが中高年好みに特化したメニューで勝負しているとしましょう。そうなると、若い世代がそのレストランに行かないように、本も買わないでしょう。だから、日向さんが新作を出すたびに、いま、どういったテーマが求められているのか、どういった物語が人々の心に刺さるか、と調査するのは素晴らしいことです。だってそれは、お金を出してくれる読者にたいする思いやり、読者に楽しんでもらうための努力なわけですからね。物語への情熱がなくなったわけではありませんし、逆に日向さんほど毎作品に全身全霊を打ち込んで挑んでいる作家は、僕の長い編集者人生の中でも五人といません。俺はこれでいいのか? と悩んでいること自体が、日向さんが読者と真剣に向き合っている証(あかし)ですよ」
 磯川が柔和に細めた眼で、日向をみつめると微笑(ほほえ)んだ。
 懐かしい感覚……忘れかけていた感覚に、心が震えた。
 ときには厳しく、ときには優しく、ときには冷たく、ときには温かく……道に迷いかけるたびに、磯川はあらゆる言葉、態度で進むべき方向を思い出させてくれた。
「日本中の全編集者が磯川君みたいだといいんだけどね。ま、もしそうなったら、あたりまえになって、磯川君のありがたみもわからなくなるだろうけど」
 日向は冗談とも本気ともつかない口調で言った。
「だから、僕と出す新作は難しいことは考えずに、十七年間頑張ってきた自分にご褒美的な一冊を書く、みたいな気軽な感じでいいと思います。たまには、自分のことも労(いた)わらないと、自分にフラれますよ」
 磯川もまた、冗談とも本気ともつかない口調で言った。
「なんだか、気持ちが軽くなったよ。早速だけど、磯川君と出す自分へのご褒美の話に入ろう! 『直木賞を取らなかった男』……だったっけ?」
「ええ。日向さんがモデルの自叙伝的小説なら、やっぱり文学賞にたいするスタンス、文壇から批判されても、日向節と呼ばれる過激な文章になぜ拘(こだわ)ったのか……というテーマは外せないと思います」
「なるほどね。振り返ってみれば、熱狂的なファンからの賞賛とアンチからの批判、天国と地獄を行った来たりの作家人生だったからね。問題は、どこまで赤裸々(せきらら)に書くかだよね。たとえば、俺のことを嫌いな芸能人、作家、編集者、または俺が嫌いな芸能人、作家、編集者を登場させるときには、読者に一発でわかるようには書けないし、かといってリアリティは失いたくないし、難しいところだよ。あとは、俺が体験した文壇や芸能界の裏話もいろいろ書きたいけど、よくあるような暴露話にはしたくないからさ。たとえば、磯川君が俺を守るために東郷さんに睨まれて『日文社』を追い出された話とか書いたら、また君に火の粉が降りかかるし。ほかにも、俺を毛嫌いしていた大女優の話も書きたいけど、所属事務所が大手だから『日文社』に圧力がかかっちゃうだろうし」
 日向は本音を漏らした。
作家デビューして十七年。作家業以外に街金融、経営コンサルタント、芸能プロダクション、「世界最強虫王決定戦」シリーズと、題材は山とある。
 だが、自叙伝的小説を謳(うた)うのであれば、ネガティヴな出来事に登場する人物は読んでいい気がしないだろう。
 フィクションであれば登場人物の恥を晒(さら)し地獄に落とすことも厭(いと)わないが、実在する人物をモデルにするとなれば話は違ってくる。
 これが、書きたいと思ってもこれまで自伝的小説を出版しなかった理由だ。
「たとえばですけど、こうするのはどうでしょう? 日向さんが実在の人物と連想されたくないキャラクターに関しては、性別と年齢を変える……実在の作家が男性で五十歳ならキャラクターは女性で三十歳、実在の女優が四十五歳なら二十八歳の男優に変える。これなら、本人が読んでも自分だとは思わないし、もし抗議してきても性別と年齢が違うので堂々と否定できます。読者も、まさか、と思うでしょうしね」
 磯川の出した案なら、たしかに日向の懸念は杞憂(きゆう)に終わるだろう。
 だが、別の問題が生じてしまう。
「そうすればバレないだろうけど、リアリティに欠けないかな。磯川案だと、東郷真一は三十代の女流作家ってことになるんだよね? あの傲慢(ごうまん)で高圧的な東郷さんのキャラを、三十代の女流作家で表現できるかな?」
「普通の作家さんには簡単じゃないかもしれませんが、日向さんならイージーですよ。ドロドロの黒日向作品からピュアな白日向作品まで書きこなす日向さんの振れ幅の広い筆力なら、東郷さんを三十代の女流作家に変身させるなんて楽勝ですよ。黒日向作品と白日向作品を動物でたとえれば、ハイエナとトイプードルくらいの違いがありますからね」
「ハイエナとトイプードル! 悔しいけど、俺の得意な比喩のお株を奪われちゃったよ」
 日向は大笑いしながら言った。 
 小説の打ち合わせで心の底から笑えたのは、いつ以来だろうか?
「本家比喩王にお褒(ほ)めいただき、光栄です。ここからは真面目な話になりますが、『直木賞を取らなかった男』は話題作になる可能性は十分にありますが、叩かれる可能性も相当に高いです。それでも、大丈夫ですか?」
 磯川が、言葉通りに笑顔から真顔に変わった。

(次回につづく)

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