第63話 「直木賞」を取れた可能性は十分にある、磯川は吐露する

文字数 2,394文字

「なにをいまさら。叩かれまくりの作家人生の俺にその心配をするのは、人前に姿を見せたら嫌悪されるけど大丈夫? とゴキブリに訊(き)くようなものだよ」
 日向は一笑に付した。
 強がっているわけではなく、作品にたいする批判は本当に気にならなかった。
「やはり本家の比喩は破壊力が違いますね。でも、僕が言った批判は、下品な文章、読んでて気分が悪くなる、劇画チックな小説、陳腐な小説……みたいな類(たぐい)のものではないのです」
「おお……読者の批判より、君のいまの言葉のほうが傷つくよ」
 日向は心臓に手を当て、半泣き顔を作って見せた。
「あ、僕がそう思っているわけじゃないですよ」
 磯川が微笑みながら否定した。
「もちろん、わかってるよ。で、どういう類の批判?」
「日向が直木賞を取れなかった言い訳をするために出したような小説だ……みたいな類の批判です」
「ああ、そういうことね。俺がいままで浴びてきた罵詈雑言(ばりぞうごん)に比べれば、どうってことないさ」
 日向は涼しい顔で言った。
「日向さんなら、そう言うかな、と思いました。でも、僕は正直、読者からそんな声を聞きたくないですね」
 磯川が、いつになく強い口調で言った。
「周囲になにを言われようと、馬耳東風(ばじとうふう)の君が珍しいね」
 これまでに、磯川が読者や書評家の批判を気にしたのを見たことがなかった、
「単なる批判なら気になりません。ですが、僕が文芸第三部に誘わずに日向さんが文芸第二部で王道デビューしていたら、『直木賞』を取れた可能性は十分にあります」
「つまり、磯川君は責任を感じてくれているわけ?」
「日向さんが賞を取れた取れなかったに関して言えば、少なからず僕の責任もあると思います」
 磯川がタンブラーをテーブルに置き、まっすぐに日向をみつめた。
 知らなかった。
 磯川が、そんなふうに思っていたことを。
「でもさ、賞を取れたとしても文芸第二部でデビューしたら、個性を潰され文章を矯正されまくって、いまの俺はなかった。それがわかっていたから、あのとき磯川君は二者択一を迫ったわけだろう? 賞レースを取るか熱狂的読者を取るか? 俺は強がりでもなんでもなく、自分の選択に後悔はしていないよ」
 磯川への慰めではなかった。
 賞レースとは無縁の作家人生を歩んだことに悔いはなかった。
「もしかしたら僕は、大きな過ちを犯してしまったかもしれません」
 磯川が悲痛な表情で言った。
「大きな過ち?」
 日向は怪訝(けげん)な顔で磯川を促した。
「二者択一を迫ったことです。日向さんのこれまでの活躍と幅広い作風を見てきて、思ったんです。ジャンルを問わず結果を出してきた日向さんなら文芸第二部でデビューしても、いまと変わらない活躍ができたんじゃないか……つまり『直木賞』を狙いながらも、いまと変わらない活躍ができたんじゃないか、と」
 磯川が過去の選択を後悔し、自責の念に苛(さいな)まれていたとは夢にも思わなかった。
「磯川君が本音を語ってくれてるから俺も本音を言うけど、文芸第二部でデビューしても賞は取れなかったよ」
「どうして、そう思うんですか? 僕への気遣いなら、お構いなく」
「いや、気遣ってなんかいないよ。磯川君が褒めてくれたように、俺が幅広い作風で結果を出せたのも十七年間第一線でやってこられたのも、君が自由にやらせてくれたからだよ。俺がいろんな作風に対応できるのは、日向ワールドが確立されているからだよ。デビュー当時にあれダメこれダメやられたり、ああしろこうしろ命令されたりしていたら、『直木賞』どころか五作続かないうちに消えていたんじゃないかな。だから、十七年前の磯川君の判断は間違っていないよ」
 日向は自信満々に断言した。
「じゃあ、そういうことにしておきましょう」
 磯川が笑いながら言った。
「あのさ、もしかして、磯川君が『直木賞を取らなかった男』ってタイトルを口にしたのは、いまの話と関係ある?」
 日向は、不意に気になったことを訊ねた。
「ええ。この小説を通じて、日向さんは直木賞を取れなかったじゃなく取らなかった、ということを伝えたいんです」
「伝えたいって、それ、磯川君の思いでしょ? 俺はどっちかっていうと、『直木賞を取れなかった男』のほうが相応(ふさわ)しいタイトルだと思うけどね」
 謙遜ではなく、日向はそう思っていた。
 磯川がそう思ってくれていることは嬉しかったが、自分の作風は自分が一番わかっていた。
 面白く刺激的な小説を書く自信はあったが、万人に認められる小説を書く自信はなかった。
 グイグイ引き込む文章を書く自信はあったが、お手本のような文章を書く自信はなかった。
 読者を驚かせる物語を書く自信はあったが、選考員が賞賛する物語を書く自信はなかった。
「日向誠の自叙伝的小説のタイトルは、『直木賞を取らなかった男』にさせてください。これだけは、譲れません。頑固さでは、日向さんに負けていませんからね」
 磯川が、腕組みして眉根を寄せる気難しい顔を作って見せた。
「なんだか、懐かしいな。磯川君と酒を飲みながら新作の打ち合わせをするなんて。もう、文芸第三部には戻ってこないと諦めかけていたよ」
 日向は感慨深げに言いながら、タンブラーを口元に運んだ。
「戻ってないですよ」
 磯川の言葉に、日向はタンブラーを持つ手を唇の前で止めた。
「え? 戻ってきたじゃない」
 日向は訝しげな顔で磯川を見た。
「期間限定の復帰です。すみません、『ベルジャンホワイト』をください。日向さんは、次、なににしますか?」
 磯川はスタッフに注文すると、日向にメニューを差し出してきた。
「期間限定の復帰って、どういう意味?」
 日向はメニューを差し返し、磯川に訊ねた。

(次回につづく)

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