第61話 久々の磯川との邂逅を心の底から喜ぶ日向だったが――

文字数 2,468文字

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「積もりまくる話があるけど、とりあえずベストパートナーとの再会に乾杯!」
 渋谷のビアバー「グッドライフ」――日向は、生ビールのタンブラーを宙に掲げた。
「ご無沙汰しています」
 磯川が遠慮がちに、日向のグラスにグラスを触れ合わせた。
 喉に流れ込むホップの苦味と炭酸の刺激が心地よかった。
「カーッ! うまい!」
 まるでビールのCMのように、日向は大袈裟にうまさを表現した。
「相変わらず、磯川君も人が悪いな。トークショーにくるなら、教えてくれればいいのにさ」
 日向は、磯川を軽く睨(にら)みつけた。
「それじゃあ、サプライズになりませんからね」
 磯川が冗談めかして言った。
「それにしても、久しぶりだね。もう、どのくらいになる?」
 日向は、血色がよく以前よりふっくらした磯川をまじまじと見つめた。
 いまだに、磯川と飲んでいる事実が信じられなかった。
「僕が『日文映像』にいたときが最後ですから、十年くらいは経っているんじゃないですか?」
 磯川は言うと、ベルギーの地ビールを喉を鳴らしながら流し込んだ。
「十年かぁ……もう一昔前だね」
 日向は感慨深く言った。
「ところで、どうしてあんな質問をしたの?」
 日向は訊(たず)ねた。
「人生であと一冊しか小説を出せないとしたら、どんな物語を書きたいですか? ってやつですね?」
 磯川がイベントでの質問を繰り返した。
 日向は頷いた。
「あの場でも言いましたが、過去に数多くの作品を上梓してきた日向さんが、作家生活最後に書くとしたらどんなテーマなんだろうという単純な興味からですね」
「でも、それだけの理由ですっかり絵本の世界の人になった磯川君が、お忍びでライブに参加しないでしょ?」
「絵本の世界の人ですか?」
 磯川が苦笑した。
「あえて別の理由を探すなら、日向さんが本当に書きたい小説を一緒に探そうかな、と思ったんです」
「俺のために戻ってきてくれたのはとても嬉(うれ)しいけど、どうしてそう思ったの?」
 日向は、一番気になっていたことを訊ねた。
「刊行点数も七十作を超えて、白も黒も中間のジャンルも自由自在に書けて、打ち合わせ段階から出版社の意向も汲み取ってくれる。ほかのベテラン作家みたいに偉ぶらず、全力でリクエストに応えようとしてくれる。一見、勢いと力任せで書く作家に思われがちですが、凄く器用な作家でもあります。そうでなければ、純愛小説と犯罪小説、真逆の作品を書き分けることはできませんからね。編集者からすれば、本当に有難い作家です。でも、そのサービス精神が仇(あだ)となって、初期の頃のように本当に書きたいテーマがわからなくなってしまった。勝手ながら、そんなふうに思っていました。僕の思い込みなら許してください」
 磯川が笑った。
「さすがだね」
 日向は、言葉を噛み締めた。
 十年も離れていたのに、まるでずっと担当編集としてそばにいたように、磯川は日向の抱えるジレンマを見抜いていた。
「日向さんは、僕が担当だったからいまの自分があるとか言ってくれてますけど、そんなことは全然なくて、誰が担当でも同じように活躍できたと思いますよ。一つだけ、僕がお役に立てたことがあるとすれば、日向さんの書きたいものを書いて貰っていたということですかね。僕が担当していた頃の日向さんは、いい意味で自我を貫いていたと思います」
 たしかに、磯川の言う通りだった。
 こういうテーマを書いたほうがいい、こういう表現はやめたほうがいい、と磯川に言われたことはなかった。
 デビュー十七年が経ち、ベテランと呼ばれる域になった現在、日向にはっきりものを言える編集者はいなくなったが、デビュー当時の新人作家だった頃なら、その気になればいくらでも型に嵌(は)めることができたはずだ。
だが、磯川は日向を自由に泳がせてくれた。
「初期の俺は自我を貫いていたか……」
 日向はため息を吐(つ)いた。
「まあ、でも、日向さんは変わっていませんよ」
 磯川が、ピスタチオの殻を割りながら言った。
「え? どういうこと?」
「出版社の意見を聞きながらも、日向さんは自我を貫いてきたんです。貫きかたが穏やかになっただけです。恋愛小説、犯罪小説、社会派小説、純文小説、児童小説、家族小説、ホラー小説、コメディ小説、動物小説……日向さんは、書きたいものを書いてきました。これまで、こんなに幅広いジャンルを書いた作家はいませんよ」
 磯川が柔和に眼を細めた。
「たしかに、ジャンルは幅広いけどさ。でも、ほとんどが出版社に書いてほしいって提案されたテーマだからね」
 日向は自嘲(じちょう)的に笑った。
「これだけ違うジャンルのテーマをリクエストされて、応えられるんですから誇りに思っていいですよ。問題は、最近は書いていて燃えるものがないっていうことですけど、それは出版社や担当編集の問題じゃなくて、日向さん自身の問題だと思います」
「俺の?」
 日向は、口にカシューナッツを放り込もうとした手を止めた。
「はい。昔から、日向さんは商業出版である以上は利益を出さなければならない、という思いが強い作家でした。売り上げなんてどうでもいいという作家は、自費出版で出せと。普通の作家さんも本が売れればいいなとは思っているでしょうが、日向さんほど利益や収支にこだわっている人は、文壇で見たことがありません。日向さんの場合は、自分の作品を経営者の目線で見ているんですよね。だから、出版社からのリクエストを聞くというよりも、担当編集とともにマーケットリサーチをしているといったほうが正しいでしょう。自分の書きたいものより、マーケットで求められているテーマを探しているんです。日向さんもいやいやじゃなくて、出版社の意見も積極的に採り入れているんだと思います。でも、一方で創作者として欲求のまま書きたいというジレンマがあるんです」
 精神科医ばりに分析する磯川を、日向は驚いた顔でみつめた。

(次回につづく)

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