〈7月6日〉 浅生鴨
文字数 3,693文字
壁の向()こうで
森()から延()びる道()は、大河()に架()かる細()く長()い吊()り橋()を渡()ったところでいきなり終()わる。橋()の向()こう側()には壁()があるからだ。
もう何十年()も前()に、恐()ろしい病気()から逃()げてきた年寄()りたちが、病気()に罹()った者()と二度()と出会()わないようにと、村()の周囲()に巨大()な壁()を作()ったのだ。
橋()を渡()り切()ったニキは、壁()の前()に立()って静()かに空()を見上()げた。
壁()はどこまでも高()くそびえ立()っていて、その先端()は雲()の中()へと消()えている。森()から飛()んできた鳥()も壁()を越()えることはできず、その手()前()ですっと向()きを変()えて、再()び森()へと戻()っていく。
一日()の半分()近()くは壁()が太陽()の光()を遮()るので、作()物()の実()りはよくないが、それでも病気()が蔓延()するよりはいいと年寄()りたちは言()う。
「壁()の向()こう側()にはもう荒()れた世界()しかない。みんな病気()で化()け物()になってしまったのだ。だから、あちら側()へ行()こうなどと考()えないことだ」
村()の年寄()りたちは事()あるごとにそう口()にするが、それでも何年()かに一度()、無謀()にも壁()を越()えようとする若()者()が現()れた。もっとも彼()らがその後()どうなったのかは誰()にも分()からない。向()こう側()へうまく降()りることができたのか。それとも――。
伸()び放()題()の雑草()に隠()されているが、壁()の根元()には二〇二〇と刻()まれていることをニキは知()っている。そして、そのそばに大()きな割()れ目()があることも。
割()れ目()を見()つけたのは七歳()になってすぐのことで、それ以来()ニキはここへ来()るたびに、割()れ目()の奥()へ金属()の棒()を差()し込()んで、少()しずつ壁()を削()っていた。初()めは指()がほんの少()し入()るだけだった割()れ目()も、今()ではもう腕()をすっぽり入()れても手()が届()かない。今年()、十三歳()になったニキは女()の子()にしては背()の高()いほうで、腕()だってずいぶん長()いのに、それでも奥()に届()かないのだから、かなり深()くまで掘()れているはずだとニキは思()っていた。
この割()れ目()のことはニキだけの秘密()で、大人()たちはもちろん、学校()の友()だちにも教()えていない。もしも誰()かに知()られたら、病気()が入()ってくることを恐()れた大人()たちは、きっと割()れ目()を塞()いでしまうだろう。
コツン。コツン。割()れ目()の奥()に当()たる金属()の棒()がいつもと違()う音()を立()てた。なんだろう。ニキは慌()てて棒()を引()き抜()き、割()れ目()の中()を覗()き込()んだ。真()っ暗()な穴()の向()こう側()に、かすかに光()が見()えるような気()がした。
「向()こう側()に届()いたのかも」ニキは急()に恐()ろしくなった。もしも、この穴()から病気()が入()ってきたらどうしよう。化()け物()がやってきたらどうしよう。ニキは、思()わず割()れ目()から一歩()足()を遠()ざけた。
「あっ」不意()に、割()れ目()から金属()の棒()が飛()び出()した。何()これ。え。これって、もしかして。向()こう側()からも誰()かが穴()を掘()っていたんじゃないの。
ニキは金属()の棒()をつかんで上下()に揺()すった。しばらく棒()の動()きが止()まり、やがて棒()が上下()に揺()れた。
やっぱりそうだ。ニキはもう一度()、割()れ目()を覗()き込()んだ。
「ねえ、誰()かいるの? 聞()こえる?」遠()くから声()が響()いていた。女()の子()の声()だ。おそらくニキと同()い年()くらいだろう。
「聞()こえるよ」ニキは答()えた。
「ああ、すごい。すごい。本()当()に壁()の向()こうにも人()がいたんだ」女()の子()は感激()したような声()を出()した。
「うん、いるよ」ニキは大()きな声()を出()した。
「でも、そっちの人()って、みんな病気()なんでしょ?」女()の子()が尋()ねた。
「ううん。誰()も病気()じゃないよ。だって病気()が入()ってこないように壁()を作()ったんだもん」
「そうなの?」
「そうだよ」
「だって、こっちに病気()の人()なんていないよ」女()の子()が不()思()議()そうな声()を出()す。
ニキの目()が丸()くなった。壁()の向()こうは化()け物()の住()む恐()ろしい場所()。ずっとそう聞()かされてきたのに。私()と同()じような女()の子()が普通()にいるなんて。
「だったら私()、そっちに行()ってみたい」
「おいでよ。私()もそっちに遊()びに行()くよ」
「それじゃ、もっと穴()を大()きくしなきゃね」
「大人()にも教()える?」
「まだダメよ。今()は私()たちだけの秘密()にしておこうよ」
「だよね」
たった今()、新()しい世界()が始()まった。そう感()じて、ニキは密()かに胸()を躍()らせた。
浅生 鴨(あそう・かも)
1971年()、兵庫()県()生()まれ。作家()、広告()プランナー。NHK()職員()時代()に開設()した広報()局()ツイッター「@NHK()_PR()」が、公式()アカウントらしからぬ「ユルい」ツイートで人気()を呼び、中()の人()1号()として大()きな話題()になる。2014年()にNHK()を退職()し、現在()は執筆()活動()を中心()に広告()やテレビ番組()を手()がける。著書()に『中()の人()などいない』『伴走者()』『猫()たちの色()メガネ』『どこでもない場所()』など。