〈8月10日〉 朝倉宏景
文字数 2,666文字
夜のトランペット
寿命 間近 () の夜 () の蝉 () は、予想 () のつかない軌道 () を描 () いて飛 () び、ときに人間 () に向 () かってくる。私 () は「きゃっ」と情 () けない声 () を出 () して彼 () の腕 () にしがみついた。蝉 () はじじじと鳴 () きながら私 () のすぐ手前 () で急旋回 () し、街灯 () にぶつかった。
「でも、いいの?試合 () 前日 () なのに」私 () は恥 () ずかしさをごまかすように、たずねた。汗 () ばんだ二人 () の肌 () が離 () れるとき、ぺったりとした、吸 () いつくような感触 () が残 () った。
「すぐ帰 () るから大丈夫 () だよ。試合 () 、午後 () からだし」彼 () は答 () えた。
午後 () 八時 () だった。多摩 () 川 () の河川敷 () の、川 () べり近 () くまで歩 () いて行 () く。黒 () い水面 () に街灯 () の光 () が反射 () している。
「ここらへんなら民家 () も遠 () いし、音 () 、大丈夫 () かな」私 () は楽器 () ケースからトランペットを取 () り出 () した。マスクをあごの下 () までおろし、マウスピースを口 () にあてる。金属 () がほてった肌 () にひんやりと冷 () たい。鼻 () から空気 () を吸 () いこみ、小 () さくすぼめた口先 () から一気 () に空気 () を吐 () き出 () した。甲高 () い音色 () が闇夜 () を切 () り裂 () く。
彼 () は私 () と同 () じ高校 () の、野球 () 部 () のキャプテンだ。明日 () から最後 () の大会 () にのぞむ。けれど、いくら勝 () ち進 () んだとしても、夢 () だった夏 () の甲子園 () への道 () は閉 () ざされている。
蝉 () の鳴 () き声 () と争 () うように、彼 () が打席 () に立 () つときに演奏 () するはずだった「夏祭 () り」という曲 () の主旋律 () を、心 () をこめて演奏 () した。味方 () チームが得点 () 圏 () にランナーを進 () めたときのチャンステーマも、母校 () の校歌 () も、祈 () るような気持 () ちで奏 () でた。無 () 観客 () 試合 () なので、明日 () は応援 () に行 () けない。球場 () でトランペットを吹 () くことができない。それどころか、吹奏楽 () 部 () のコンクールまで中止 () になってしまった。
トランペットのメロディーは、夜 () のしじまに吸 () いこまれて消 () えていった。私 () はマスクを口 () もとまで上 () げた。
「ありがとう。元気 () 出 () た」彼 () は言 () った。
「頑 () 張 () ってね」私 () は答 () えた。
毎日 () 、毎日 () 、吹奏楽 () 部 () の朝練 () をしながら、同 () じく朝早 () くから練習 () にいそしむ野球 () 部 () のかけ声 () を聞 () いていた。そんな日々 () も、もう過去 () のものだ。
「明日 () 、また、ここで会 () おう」
「勝 () ってくるよ」
今日 () も会 () える。明日 () も会 () える。あさっても、しあさっても、会 () おうと思 () えば会 () える。そんな当 () たり前 () が、当 () たり前 () ではないことを、私 () たちは知 () ってしまったから。
だから、私 () たちは前 () を向 () いて歩 () いていく。甲子園 () 球場 () の青空 () のもと、真夏 () の陽光 () をきらきらと誇 () らしげに反射 () させるトランペットのボディーを、私 () はふと想像 () した。泣 () きそうになった。もう涙 () は流 () さないと決 () めていたから、私 () はマスクの内側 () でにっこりと微笑 () んだ。
朝倉宏景(あさくら・ひろかげ)
1984年 () 東京 () 都 () 生 () まれ。2012年 () 『白球 () アフロ』で、第 () 7回 () 小説 () 現代 () 長編 () 新人 () 賞 () 奨励 () 賞 () を受賞 () 。他 () の著作 () に『野球 () 部 () ひとり』『つよく結 () べ、ポニーテール』『僕 () の母 () がルーズソックスを』『空洞 () 電車 () 』などがある。元 () 高校 () 球 () 児 () で、ポジションはセカンド。2018年 () 『風 () が吹 () いたり、花 () が散 () ったり』で第 () 24回島清 () 恋愛 () 文学 () 賞 () を受賞 () した。最新作 () は、甲子園 () 球場 () の整備 () を請 () け負 () う「阪神 () 園芸 () 」を舞台 () にした『あめつちのうた』。
【近刊】

「でも、いいの?
「すぐ
「ここらへんなら
トランペットのメロディーは、
「ありがとう。
「
「
「
だから、
朝倉宏景(あさくら・ひろかげ)
1984
【近刊】
