第66話 あらためて磯川のことを知りたいと思う日向だったが

文字数 3,264文字

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「氷室(ひむろ)さん、一つ、聞かせてください。直木賞を狙える作家と熱狂的なファンのいる作家なら、どちらの作家になりたいですか?」
 初めて会ったときに、いきなり磯山(いそやま)は訊(たず)ねてきた。
「どっちもがいいですね」
 氷室は言った。
 変なことを訊(き)く編集者だと氷室は思った。
 賞を取るには、小説が売れなければならない。
 つまり、ベストセラー作家でなければ賞は取れないのだ。
「どっちもは無理です。一つだけ選んでください」
 すかさず、磯山が言った。

 日向はパソコンのキーを打つ指を止め、コーヒーカップを口元に運んだ。
 神保町のレトロな造りの喫茶店で、三時に磯川と待ち合わせをしていた。
 磯川との待ち合わせの時間まで、三十分あった。
 再来月から始まる新連載「直木賞を取らなかった男」を執筆するために、早めに待ち合わせ場所にきたのだった。
 通称文壇喫茶と呼ばれる店内の壁には、新旧様々な作家のサインが飾られていた。
 日向がこの店を訪れたのは初めてだった。
 磯川の勤務する絵本専門の出版社が神保町にあるので、この喫茶店を待ち合わせにしたのだった。

『打ち合わせが終わったら、僕の職場に寄ってください。「日文社」とは比べようもない小さな会社ですが、なかなか居心地のいい空間ですよ』
 
 磯川の言葉が脳裏に蘇(よみがえ)った。
 磯川が居心地いいという空間を、体感してみたかった。
 考えてみれば日向は、磯川の私生活をほとんど知らなかった。
 どんな歌を聴き、どんな料理が好物で、どんな女性がタイプか……小説以外のことを磯川と話した記憶はなかった。
 一番の目的は、この眼(め)で確認しておきたかった。
「日文社」の編集長のポストという好待遇を蹴ってまで選んだ、磯川の天職を……。
 日向は執筆を再開した。
 
「磯山さん、その質問は矛盾していると思うんですけど。直木賞を取るような作家は、みな、売れてるじゃないですか?」
 氷室が率直な疑問をぶつけると、磯山が微笑(ほほえ)みながら頷いた。
「たしかに、そういうイメージがありますよね。でも、直木賞や芥川賞などはレコード大賞と違って、どれだけ売れたから受賞できるというものとは違います。理由としては、選考委員が作家だからです。候補作が売れている、売れていないは選考材料から外します」
 磯山が淡々とした口調で言った。
「じゃあ、なにを選考材料にしているんですか?」
「好みです」
 磯山があっさりと言った。
「好みですか?」
 思わず氷室は訊ね返した。
「はい。各々の選考委員が考える、受賞するに相応(ふさわ)しい作品の基準があります。その基準をより多く満たしている作品が選ばれるということです」
「なるほど。つまり、俺の作風は選考委員の好みに合わないということですね?」
 氷室が訊ねると、磯山が頷(うなず)いた。
「八十年を超える直木賞の歴史の中で、これまでの受賞作の傾向を考えると、氷室さんの過激な表現、独特な文章が選考委員に受け入れられるとは思えません。なので、直木賞を取りに行くのなら、いまの作風を百八十度変えなければなりません。そうなると、私が面白いと思った氷室作品ではなくなってしまう可能性が高くなります。いまの氷室さんなら、賞レースとは無縁でも熱狂的な信者に支持される作家になれるという確信が私にはあります」

「日向さん、お待たせしました」
 物語の中の磯山の言葉に、磯川の声が重なった。
「まだ、待ち合わせまで十五分もあるよ。連載を進めておこうと思って、早めにきたんだ」
 日向は言った。
「いい感じに書けてますか?」
 磯川が、訊ねながら日向の正面の席に座った。
「ちょうど、俺の作風だと選考委員から総すかんを食らうって、君にダメ出しされているところを書いていたよ」
 日向はノートパソコンのディスプレイを指差しつつ、冗談めかして言った。
「そんなひどい言いかたは、していませんよ」
 磯川が苦笑し、店員に炭焼きコーヒーを注文した。
「エンターテインメントだから、真実より面白くしないとだから」
「たしかにそうですね。でも、日向さんとのエピソードは脚色なしでも刺激的なことばかりでしたけどね」
「磯川君が、昔『反社』だったりね」
 日向は、以前に居酒屋で絡んできた半グレを相手に見せた、磯川の別の一面をイジった。
「反社じゃありませんよ。勘弁してください」
 磯川が、ふたたび苦笑した。
「ごめん、ごめん。真面目な話、『直木賞を取らなかった男』は磯川君との最後の作品になるから、俺の代表作にしたいね。時代が違うから『願い雪』の二百万部ってわけにはいかないだろうけど、五十万部は狙いたいね」
 日向は弾む声音(こわね)で言った。
 打ち合わせの段階から、こんなに胸が弾むのはひさしぶりのことだった。
「心強い言葉ですね。でも、たとえ五千部でも、僕は日向さんと作品を作り上げることができるだけで嬉しいですよ」
 磯川が柔和に目尻を下げた。
 彼が、お世辞でもそういうことを口にするタイプでないのはわかっていた。
 二人は、十七年前に時を巻き戻したように、小説の内容をディスカッションした。
 日向も磯川も、十年以上の空白などなかったかのようにアイディアのラリーを続けた。
「磯川君のリクエストある? 君への花向けに、可能なかぎり意見を採り入れようと思っているからさ。主役の座は譲らないけどね」
 日向は笑いながら言った。
「僕、目立ちたくないので、主役はどんなに大金を積まれても固辞します」
 磯川も冗談めいた口調で返してきた。
「で、リクエストは?」
 日向は改めて訊ねた。
「もし可能なら、で構わないんですが、まったりとした日向作品を読みたいかな、って思います」
 磯川が遠慮がちに言った。
「まったりとした?」
 日向は繰り返した。
「はい。日向作品の醍醐味はいわゆるジェットコースター小説と呼ばれる、白作品も黒作品も息つく間もなく読ませるスピード感です。『願い雪』なら、愛する者同士を引き裂こうとする障害が次々と襲いかかり、『阿鼻叫喚』で言えば、ヤクザと闇金融の取り立て業者が血みどろの戦いを繰り広げます。『直木賞を取らなかった男』では、敢(あ)えてそういったドラマチックな展開や衝撃的な事件はなくてもいいんじゃないかな、と思うんです」
 磯川の言葉が、日向には理解できなかった。
「ドラマチックな展開や事件がなければ、退屈な小説になるんじゃないかな」
 日向は疑問を口にした。
「日向さんが書くならば、そうはならないと思います」
 磯川があっさりと言った。
「ん? 意味がわからないんだけど」
「日向さんはいままでの作品でも、ドラマチックな展開や事件がない部分……たとえば、『阿鼻叫喚』に出てきた見栄っ張りの登場人物がコンビニでお酒を買うときに、レジにいるのがかわいい女性店員だと気づいて、手にしていた紙パックの安価な焼酎を飲みたくもないワインに替えるとか、ヤクザのドンパチがない日常のなにげないシーンを凄(すご)く面白く描いています。『願い雪』の、ヒロインの父親が娘の恋人が家に挨拶にくる日、洗面所の鏡の前で威厳のある顔を練習しているシーンだけで十分に楽しませてくれます。日向さんは根っからのエンターテイナーですから、ドラマチックな展開や特別な事件が起こらなくても、立派なエンターテインメント作品になるんですよ」
 磯川が楽しそうに持論を展開した。
「たしかに、俺は読者を飽きさせないために、脇役もキャラを立たせて悪い意味での箸休めにならないように書いているけどさ、それは主役の物語にインパクトがあるからこそ活きることじゃないかな。つまり、前菜やデザートが美味しくても、メインディッシュがイマイチなら、またこのレストランにきたい、とはならないでしょ?」

(次回につづく)

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