第64話 日向自身のことだけを考えた小説を、楽しんで書けと

文字数 2,270文字

「『直木賞を取らなかった男』のために今の会社を休職して、一作限定で『日文社』の文芸第三部に、フリーの編集者として復帰したということです」
 磯川が、淡々とした口調で説明した。
「東郷さんの件があるから、上層部が完全復帰を認めなかったってこと?」
 日向は質問を重ねた。
「いえ、自分の意思です。上は、いつでも席を用意してくれると言ってくれているんですけどね」
 磯川が他人事(ひとごと)のように言った。
「それなら、戻ればいいじゃん。どうして戻らないの?」
 日向は率直な疑問を口にした。
「『日文社』を離れるときに、もう文芸部には戻らないと決めたんです」
「じゃあ、今回はどうして?」
「日向作品の……日向誠の一ファンとして、日向さんに、自分のことだけを考えた小説を、思い切り楽しみながら書いてもらいたいと思ったんです」
「そのためだけに、限定で復帰したの!?」
 日向は、驚きを隠せずに素頓狂(すっとんきょう)な声で訊ねた。
「僕にとっては、大事なことですから」
 磯川が糸のように眼を細めた。
「そこまで思ってくれてるなら、戻ってくればいいじゃん。俺の担当編集として、昔みたいに一緒にやっていこうよ」
 日向は願いを込めて言った。
 てっきり磯川とまた作品を生み出してゆけると陽が射した日向の心は、瞬時に雨雲に覆われた。
「そうしたい気持ちがないと言えば嘘になります。でも、それ以上に、楽しいんですよ」
「楽しい? なにが?」
「絵本の仕事です。文芸小説は初速がすべてなので、発売六ヶ月以内に結果を出せなければ終わりです。作家と編集者が一年、二年……場合によっては数年がかりで作り上げた大切な子供が、たった六ヶ月で見限られてしまう。一方絵本は、十年、二十年先も愛され続けるような作品が求められます。どっちがいいとか悪いとかを論じたいわけではありません。ただ、僕には、目先の利益を追求してだめなら切り捨ててゆくやりかたより、利益は少ないかもしれないけれど、作品のクォリティを第一に考える絵本の編集者のほうが性に合っているということです」
 利益よりもやりたいことを優先する……磯川らしい、と思った。
「じゃあ、本当にこれ一作で戻ってこないつもり?」
 日向の問いに、磯川が躊躇(ためら)いなく頷いた。
「俺がどんなに頼んでも?」
 ふたたび、磯川が頷いた。
 訊かなくても、わかっていた。
 一度決めたら、相当な理由がないかぎり考えを翻(ひるがえ)さない。
 磯川は、日向に似ている部分があった。
「俺も簡単には考えを変えないほうだけど、磯川君が頼むなら別だよ」
 日向は、少し皮肉交じりに言った。
「僕も、文芸第三部に戻らなければ日向さんがだめになるっていうなら考えますけど、それはないですから」
「俺的には磯川君がいないと……」
「あれ? もしかして、日向誠?」
 不意に、声をかけられた。
 白のタンクトップに黒のジャケットを着たツーブロックの七三分けの男と、スカイブルーのスーツを着た褐色の肌の男二人が、日向と磯川の席に歩み寄ってきた。
 二人とも顔が赤く、かなり酒に酔っているようだった。
「昔、『マンデージャパン』に出てたよね?」
「俺、ファンなんだよ。一緒に写真撮ってよ」
 二人が、馴れ馴れしく日向の肩に手を置いた。
「ありがとうございます。いま、プライべートで飲んでますから、写真はすみません」
 日向は、低姿勢でやんわりと断った。
「えーっ、写真くらいいいじゃん! 俺も前に闇金やってたんだよ。日向さんもやってたんだよね? 俺ら、闇金兄弟っつーことでさ」
 ツーブロック七三男が、日向の肩を叩いた。
「へー! 日向さんってさ、イキった見かけだけど、半グレだったの? なんとか連合とかさ? もしかして、本職とか?」
 陽灼(ひや)け男が、大声で質問を重ねてきた。
「すみません。ほかのお客さんもいるので、またの機会にお願いします」
 日向は相手を刺激しないように、あくまでも低姿勢で言った。
「またの機会っていつだよ? 五分後!? 十分後!? 二十分後!? ねーいつだよ!?」
 陽灼け男が、さらに大声で言った。
「なんかさ、印象悪いんだけど? ちょっと作家で売れたからって、スカしてんじゃねえぞっ、こら!」
 ツーブロック七三男が、テーブルの脚を蹴りつけた。
「おい、お前ら、いい加減にしろ」
 日向はドスの利いた声で言いながら、二人を睨みつけた。
「なんだおら! やんのか!?」
「ガン飛ばしてんじゃねえぞ!」
 ツーブロック七三男と陽灼け男が、競うように熱(いき)り立った。
「日向さん。だめですよ。どんな結果になっても、日向さんのプラスにはなりませんから」
 席を立とうとした日向を制し、磯川が耳元で諭してきた。
「なにごちゃごちゃ言ってんだよ! やんのか!? やんねえ……」
「ついてこい」
 日向は立ち上がり、二人を促し店の外に出た。
「本物の喧嘩(けんか)は、小説の主人公みたいにかっこよくいかねえから」
「パソコン打てねえように、指を折ってやるよ」
 ツーブロック七三男と陽灼け男が、ニヤニヤしながら日向との距離を詰めてきた。
「ここなら、いいぞ。写真撮るんだろ?」
 日向は、何事もなかったように二人に言った。
 できるなら、事を大きくしたくなかった。
 十代の頃は喧嘩三昧(ざんまい)で、ボクシングジムにも通っていたのでそれなりに自信はあった。
 だが、もう三十年も前の話だ。

(次回につづく)

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