恐れを昇華した得がたい闘病記/『くもをさがす』

文字数 1,381文字

どんな本を読もうかな――。

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今回は内藤麻里子さんがとっておきのエッセイ・ノンフィクションをご紹介!

内藤麻里子さんが今回おススメするエッセイ・ノンフィクションは――

西加奈子著『くもをさがす』

です!

 四十四歳の作家、西加奈子がトリプルネガティブの乳がんにかかった。本書はその治療と生活と、思索の記録である。大変な日々を冷静に観察し、生と死や社会について繊細な思索を重ねた。そもそも愛とパワーに満ちた作家だったが、病を経て余計なものをそぎ落としたシンプルさが加わった。全編を通して、生きることへの前向きな力が溢れ出す。


「トリプルネガティブ」とは、「(ホルモン受容体の)エストロゲン受容体とプロゲステロン受容体、HER2たんぱくが存在しないがん」のこと。「乳がん全体の15~20%がそれに当たり、予後が悪く、再発率が高い」。医者は「抗がん剤で徹底的に治療をすることが大切だ」と言った。ステージは2B。


 二〇二一年のことだ。当時著者はカナダ・バンクーバーに、家族と共に住んでいた。日本では新型コロナウイルス感染症が蔓延し、帰国もままならない。異国での治療を決断した。告知の後、バスルームでちょっと泣き、湯に顔をつけて「こわいよー」と叫んだという。その心境に胸が詰まる。


 しかし、本書の書きぶりは淡々として明るい。なにせカナダの医師や看護師らの英語が関西弁で表記されるのだ。著者は大阪育ち。関西弁のように聞こえる英語は、さぞ率直だったことだろう。日本の看護師は患者を王様のように丁寧に扱うが、異国の看護師は患者を甘やかさなかった。「カナコのがんはトリプルネガティブなんや、オッケー! 早よ治そう!」と言う看護師に囲まれて、がんになったのは不幸ではなく、ただがんという事実があるだけだと腑に落ちて、治療に臨む。


 それでも抗がん剤の副作用はあるし、語学力は万全ではない。四歳の子どももいる。支えてくれたのは、現地の友人たちだった。苦手な英語を補ってくれるし、「Meal Train」という順番に食事を届けるシステムを作ってもくれた。そんな中で著者は、日本にいたら支援を遠慮したのではないかと考える。それは「日本の風土と関係」があり、「家族のことは家族だけでなんとかしないといけない、という考えが、私たちの心身に染みついている」からだ。思索はさらに広がる。カナダで人は「愛」によって、日本人は「情」によって行動するという考察に行きつく。とても多くの示唆を含む指摘だと思う。


 ここには病を得て、生と死を意識した時に頭をよぎる問題がぎっしり詰まっている。ことに自分の中の「恐れ」を見つめる箇所はすごかった。異国にいるから日本社会にも意識が向く。それらを考え尽くし、ニュートラルな文章に昇華している。がん宣告と同時進行でこの本を書いたという。それは著者の救いになり、私たちに大きな学びを与えてくれた。

この書評は「小説現代」2023年8月9月合併号に掲載されました。

内藤麻里子(ないとう・まりこ)

1959年生まれ。毎日新聞の名物記者として長年活躍。書評を始めとして様々な記事を手がける。定年退職後フリーランス書評家に。

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