白河の清きに現れた反骨の文人墨客の生涯/『きらん風月』

文字数 1,309文字

どんな本を読もうかな――。

そんな悩みにお答えすべく、「ミステリー」「青春・恋愛小説」「時代小説」「エッセイ・ノンフィクション」のジャンル別に、月替わりで8名の選者が「今読むべきこの1冊」をオススメ!


今回は柳亭小痴楽さんがとっておきの時代小説をご紹介!

柳亭小痴楽さんが今回おススメする時代小説は――

永井紗耶子著『きらん風月

です!

 三十年という長い年月、国の為、幕府の為に政を引っ張ってきた松平定信が、息子に家督を譲り、隠居の身で東海道へ旅に出た。幼い時分から尊んでいた徳川家康の軌跡を辿る道中、逗留した掛川城で勧められた『東海道人物誌』の作者に定信が気を留めるところから、この物語は始まる。


 人物誌の作者の名は、栗杖亭鬼卵。絵や歌など多彩な芸を持つこの戯作者に興味を惹かれた定信一行は、その男が営む日坂宿の煙草屋・きらん屋を訪れ、直接本人に対面する。

 定信らが実際に目にした鬼卵は、まるでその場に漂ってはふわりと消えていく煙草の煙のように飄々としていた。そこで鬼卵が定信に請われて聞かせる青年期からの思い出話が、この作品の主軸となる。


 もともと河内国佐太で陣屋の手代として仕えていた鬼卵(当時文吾)青年は、父の勧めで大坂の文人墨客として一門を率いていた栗柯亭木端へ師事し、そこから歌や絵をより好きになったという。成長し、本格的に文人墨客の仲間入りをした鬼卵は、やがて木村蒹葭堂、円山応挙、上田秋成といった綺羅星のごとき才人たちと出会うことになる。


 その後鬼卵は東海道を東へと移り行く。土地も、出会う人々も変わっていく中でも、恩義や感謝を忘れない鬼卵は、行く先々で人々や土地から様々なものを与えられていく。


 元老中と、東海道を渡り歩き、時に幕府の圧政に逆らってきた反骨の文人墨客が相容れることは一見なさそうだが、鬼卵の立場や意見の違いを超えて周囲を思う気持ちが、語りを重ねるにつれて定信の心を揺さぶっていく。何より、その自由でありながら、人を好き、人に好かれる鬼卵の人生は、政治の世界で自己にも他者にも厳しく生きた定信の心を惹きつけ、二人の距離は次第に縮まっていく。


 最後に定信との問答の中にある鬼卵の言葉を紹介したい。

「御殿様、物語いうんは、心を遊ばすものでございますよ」「世は意のままにならぬもの。それはこのやつがれも御殿様も同じでございます。さすればこそ、時に風月を愛で、詩文や物語を読んで思いを馳せて楽しみ、日々の憂さを晴らすのです。そして明日を生きる力にする」


 私が本を読む一番の楽しさが語られていて、とても嬉しかった。何より、芸事を生きる道と決めた私が常に心掛けている、感謝を実践する鬼卵の姿が胸を打った。


 私も同じ自由人として、鬼卵のようにもっと世の中を知り、「滑稽、風刺、諧謔」に富んだ芸人になりたいと、改めて思わせてくれた作品でした。

この書評は「小説現代」2024年4月号に掲載されました。

柳亭小痴楽りゅうてい・こちらく

落語家。1988年東京都生まれ。2005年入門。09年、二ツ目昇進を機に「三代目柳亭小痴楽」を襲名。19年9月下席より真打昇進。切れ味のある古典落語を中心に落語ブームを牽引する。

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