究極のトロッコ問題ミステリー/『方舟』
文字数 1,292文字
そんな悩みにお答えすべく、「ミステリー」「青春・恋愛小説」「時代小説」「エッセイ・ノンフィクション」のジャンル別に、月替わりで8名の選者が「今読むべきこの1冊」をオススメ!
今回は青戸しのさんがとっておきのミステリーをご紹介!
です!
年明け早々、一冊の本を抱えて私は絶望していた。
夕木春央『方舟』──。
年内、いや数年間はこれ以上に完成された作品に出会う未来が想像できない。完璧の先にあるものはいつだって絶望だ。
主人公の柊一は大学時代の友達らと山奥の地下建築を訪れる。そこで偶然出会った三人家族と共に地下建築の中で夜を越すことになった。翌日の明け方、地震が発生し、扉は岩でふさがれ、さらに水が流入しはじめた。このままではいずれ地下建築は水没する。だが、誰か一人を犠牲にすれば脱出できる。
そんな矢先に殺人が起こった。残った九人のうち、死んでもいいのは、死ぬべきなのは誰か? 犯人以外が皆、同じことを思った。
あらすじだけでも十分な絶望感を味わえる。有名な思考実験「トロッコ問題」をご存知だろうか。簡略化すると「五人を助けるために他の一人を殺しても良いか」という問題だ。人の命は平等である、という思想であれば単純に命の数だけで考え、目の前のレバーを引いて五人の命を救い一人を殺すだろう。一瞬の判断であれば恐らく私もレバーを引く。
ではその判断を下すまでに一週間の猶予があるとしたら。選択肢の中に友人や、最愛の人がいたとしたら。見ず知らずの人の生い立ちを聞いて、自分も傍観者の立場から引き摺り下ろされるとしたら。私はそんな地獄でどう振る舞うのだろうか。「命の価値は平等だ」と胸を張って言えるだろうか。作中にあった「愛する誰かを残して死ぬ人と、誰にも愛されないで死ぬ人と、どっちが不幸かは、他人が決めていいことじゃないよね」という言葉が呪いのように記憶に残っているのは、私が今日まで他者からの愛によって生きながらえてきたからなのだろう。
ここまで読んで胸が痛んだ人はどうかそのまま、優しい心のまま生きてほしい。一番に頭に思い浮かんだ人を沢山愛して、愛されて生きてほしい。そんな状況は現実には起こり得ないと、鼻で笑った度胸のある人は今すぐ書店に行くべきだ。そうでないと本書を勧めるこちらも胸が痛い。
最後に、ミステリ作品をこよなく愛する皆様へ。これだけの話題作、今更私が紹介するまでもないと思いますが、唆られるクローズド、緊迫するフーダニット、恐ろしく美しいホワイダニット。これぞミステリの真髄。
リアリティなんてものは心躍るミステリの世界にはあまり必要のないものです。絶賛の声に埋め尽くされた帯のハードルを悠々と超えて、幸福な絶望を味わえるとここで約束します。
この書評は「小説現代」2023年2月号に掲載されました。
モデルや女優を中心に多方面で活躍中。MVに出演し、ヒロイン役を務めるなど活動の幅を広げている。インスタグラム/ Twitter (@aotoshino_02)