ただ旅に生きる姿を沢木が甦らせる/『天路の旅人』

文字数 1,364文字

どんな本を読もうかな――。

そんな悩みにお答えすべく、「ミステリー」「青春・恋愛小説」「時代小説」「エッセイ・ノンフィクション」のジャンル別に、月替わりで8名の選者が「今読むべきこの1冊」をオススメ!


今回は内藤麻里子さんがとっておきのエッセイ・ノンフィクションをご紹介!

内藤麻里子さんが今回おススメするエッセイ・ノンフィクションは――

沢木耕太郎著『天路の旅人』

です!


 よくぞこの旅人を現代に甦らせてくれた。読み終えて、感謝の念が込み上げた。


 旅人の名は西川一三。第二次大戦末期、密偵として中国大陸の奥地に潜入し、戦後もチベット、インド、ネパールまで足を延ばした。足かけ八年に及ぶ行程は『秘境西域八年の潜行』上・下巻(一九六七~六八年)として刊行され、反響を呼んだ。しかし、元の原稿枚数が膨大だったため、書籍化に当たり大幅にカットされるなどして読みづらいという。後に追加の別巻が出て、文庫化もされるが、わかりにくさはそのままだった。


 本書は、旅の部分を丹念に追っただけではなく、西川という希有な旅人の姿を描いたところが肝となる。導入部にそう書かれているが、初めはピンと来なかった。けれど八年の旅を追い始めて無類の冒険譚に夢中になり、五〇年に帰国してからの生き方に触れると、まさに「希有な旅人」という表現しかないと思い知るのだ。こんなふうに生きた人がいたのかと、粛然とした気持ちになる。


 ともあれ西川は志願してラマ教(チベット仏教)の蒙古人巡礼僧になりすまし、四三年に旅立つ。匪賊を避け、身分を隠すため、土地の人々に紛れて地をはうような西域行である。時に寺院で修行に励み、どこでも骨惜しみせず働いた。敗戦を知っても未知の場所への憧憬やまず旅を続けた。彼の情報と知見は、帰国後、GHQ(連合国軍総司令部)が約一年も聴取を続けたほど貴重だった。


 ところで、西川のような西域の密偵はもう一人いた。木村肥佐生といい、こちらの旅も『チベット潜行十年』(五八年)という本になっている。木村は帰国後、語学力を生かして大学教授になった。一方の西川は盛岡で地道に商売を続けた。当時、人気だったテレビ番組で西川の旅が取り上げられ、現地に同行を頼まれたのを断ってもいる。断った理由がまたふるっている。そんな生き方を、沢木はこう看破する。「西川は、(中略)多くを求めることなく(中略)ただ旅を生きた。同じように、岩手の地でも、多くを求めることなく(中略)ただ日々を生きることを望んだ」


 本書を読んでいるともちろん、沢木が『深夜特急』につづった貧乏旅行が頭をかすめる。西川と沢木は一年ほど一ヵ月に一度の頻度で酒を酌み交わした。それが取材だった。二人にどんな時間が流れたのだろう。出版には四半世紀を要した。西川は亡くなってしまったが、妻の話を聞くことができ、生原稿を入手するという僥倖にも恵まれて、この本は完成した。自身の思い入れを極力排した端正な筆が、旅人の姿を鮮明に浮かび上がらせる。


 西川が亡くなる前、娘に残した言葉がある。それがやけに心にしみる。

この書評は「小説現代」2023年1月号に掲載されました。

内藤麻里子(ないとう・まりこ)

1959年生まれ。毎日新聞の名物記者として長年活躍。書評を始めとして様々な記事を手がける。定年退職後フリーランス書評家に。

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