〈6月2日〉 麻耶雄嵩

文字数 1,373文字

不要不急


 とある事情でアパートが全焼して丸裸で焼け出されたため、しかたなく実家に舞い戻った。三食昼寝付きの実家はなんとなく居心地がよくて、新居選びをグズグズしているうちにコロナ騒動で大阪に戻れなくなった。愛車は県外ナンバーなので、閉鎖的な近隣住民から投石されたり「出て行け!」と油性ペンで落書きされたりと散々だった。大阪が恋しくなり、事務所に泊めてもらえないかとメルカトル鮎に打診したところ、コンプライアンスに反するから越境するなと冷たく拒絶された。
 ようやく五月末になって緊急事態宣言が解除されたので、久しぶりにメルカトルの事務所に遊びに行った。泊めてもらうにこしたことはないが、今ならホテルも底値で選び放題なので不安はない。
「このご時世に、むしろ血色がよくなっているな。美袋君」
 挨拶もそこそこにメルカトルが揶揄う。探偵事務所のテーブルには、巨大な法隆寺五重塔の木造模型が置かれていた。八十センチ近い高さで、最上部の屋根がまだ未完成だった。私の視線に気がついたのか、
「暇だったからな。上手くできているだろう」
 手先が器用なことより、メルが真面目にステイホームしていたことに驚いた。
「呑気そうだけど、この春は殺人犯も自粛していたのか?」
 田舎ではコロナのニュースばかりだったので、大阪の事情にすっかり疎くなっていた。するとメルは「まさか」と笑った。
「逆だよ。謀殺は激増している。夜道に人が少なければ被害者宅に忍び込むのも、被害者を待ちぶせするのも目撃されにくい。しかもマスクで顔を隠しても怪しまれない。むしろ今がチャンスと不要不急の殺人すら起こっている始末だ」
「犯人はコロナが気にならないのか」
「人目を避けて犯行に及ぶから、必然的に三密は避けられる。それに犯罪者にとって一番重要なのは、世間の名探偵たちが不要不急の捜査をしなくなることだ」
「不要不急の捜査?」
 そう、としたり顔でメルは頷いた。
「能力の優れた探偵ほど貯蓄がある。つまりこの時期慌てて依頼を受ける必要もない。聞き込み一つにも嫌な顔されるしな。ましてや君でも知っているような高名で高齢な名探偵は、命に関わるから蓑虫のごとく蟄居している。今どき現場にいるのは金回りの悪いザコ探偵ばかりだよ」
「でも君はまだ若いだろ。かき入れ時だったんじゃないのか?」
「のこのこ出張って、木っ端探偵なんかと同一視されるのも気分が悪い。なに、慌てる必要はないさ。これ幸いと、どさくさに紛れて事を起こす犯罪者など、いくら初動が遅れようが充分間に合う。今はまず五重塔を完成させるのが先だ。こちらのほうが並の難事件よりはるかに手間暇がかかる。……それに不要不急な依頼を翌月に先送りするだけで、不要不急の金が入ってくるしね」
 途端に悪い顔になった。


麻耶雄嵩(まや・ゆたか)
1969年生まれ。京都大学工学部卒業。大学では推理小説研究会に所属。‘91年に『翼ある闇 メルカトル鮎最後の事件』でデビュー。2011年『隻眼の少女』で第64回日本推理作家協会賞長編及び連作短編集部門、第11回本格ミステリ大賞を受賞。‘15年『さよなら神様』で第15回本格ミステリ大賞を受賞。

【近著】

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