〈5月5日〉 重松清

文字数 1,512文字

2020年のせいくらべ


「タケシ、せいくらべするぞ」
 さっきまで二階にいたパパは、リビングに入ってくるなり僕に言った。
「サインペンの、なるべくペン先が細いやつ持ってきてくれよ」
 身長を測るだけでなく、それを『せいくらべ』の歌のように、リビングの壁に書くのだという。
 ママはすぐさま反対した。
「自分のウチにわざわざ落書きしてどうするのよ」
 僕もそう思う。築二年。まだ新しい我が家を、ママはとても大切にしていて、いつも丁寧に掃除をする。特にこの一ヶ月ほど——なかなか外に出かけられなくなってからは、毎日が年末の大掃除みたいだった。
 そんなママにしてみると、パパの思いつきは大ヒンシュクものだろう。わかるわかる。
 しかも、パパはいま、ちょっとお酒に酔っている。今日はこどもの日の休日なので、友だちとオンラインで集まって、昼間からお酒を飲んでいたのだ。
「タケシにとって小学五年生のこどもの日は一生に一度なんだよ」
 パパは言った。あたりまえすぎて返事もできないような理屈だった。
 ママもさらにあきれてしまって、「ちょっと寝れば?」と笑った。
 でも、パパは「こんなこどもの日……こんな新学期、一生に一度だ。二度と味わわせたくないよ」と続けた。
 ママもその言葉には「それはそうよね……」と、しんみりした顔でうなずいた。
 僕は四月からまだ一度も学校に行っていない。目に見えないウイルスのせいだ。新学期でクラス替えをしても、同じ五年二組の友だちとはオンライン授業の画面でしか会っていない。外に遊びにも行けないし、出かけるときにはマスクをしていないと、怖いおじさんに「うつすな!」と怒られるというウワサだ。
 こんなつまらない春、生まれて初めてだ。誰のせいでこうなったんだろう。なにが悪かったんだろう。僕がいけないことをしちゃったわけ? 違うよね……。
「タケシはいま身長いくつだ?」
「わかんないけど、一月の身体測定は百三十四センチだった」
「じゃあ、いまはもっと伸びてるな」
「うん……たぶん」
「来年からも、ずんずん伸びる」
 パパはそう言って、「だから、せいくらべするんだ」と続けた。
「今年のこどもの日の自分の背丈を来年見てみると、あの頃はまだちっちゃかったんだなあ、って思うから……一年間でこんなに背が伸びたんだなあって、絶対に思って、絶対にうれしくなるから」
 力を込めて言ったパパは、「負けてらんねーだろ、こんな春に」と笑った。
 せいくらべ、ママもOKしてくれた。サインペンはエンピツに変わったけれど。
 リビングの壁に背中をつけて「気をつけ」をして、パパに測ってもらった。
 百三十五・五センチ。やっぱり一月から伸びていた。
「大きくなるんだ、子どもは」とパパが言った。「なるわよ、子どもって意外とたくましいんだから」とママも言った。
 二人とも笑顔なのに、涙ぐんでいた。
 それが不思議で、でも、急に僕までうれしくなって、ママとハグした。パパともハグした。パパは照れくさそうに「濃厚接触しちゃったな」と泣き笑いの顔になった。


重松清(しげまつ・きよし)
1963年生まれ。早稲田大学教育学部卒。出版社勤務を経て執筆活動に入る。ライターとして幅広いジャンルで活躍し、91年に『ビフォア・ラン』で作家デビュー。99年『ナイフ』で坪田譲治文学賞、『エイジ』で山本周五郎賞、2001年『ビタミンF』で直木賞、10年『十字架』で吉川英治文学賞、14年『ゼツメツ少年』で毎日出版文化賞を受賞。

【近著】

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