〈5月26日〉 原田マハ

文字数 1,576文字

花ひらく


 デスクに頬杖をついてスマホをいじっていたあおいは、なんの気なしに窓の外に目線を移した。狭い庭先に植えられた燕子花(かきつばた)が、緑色の尖った葉をぴたっと身にまとい、槍のように凛々と並んでいる。先端はうっすらと紫色を帯びて、やがて咲きこぼれる花の予感がある。
 この春中学校に入学したあおいは、入学式いちにちきり登校して、クラスメイトの顔も名前もまったく覚えないまま、休校に突入してしまった。リモート授業は想定されていなかったので、教科書を読んで課題のプリントをやるしかない。つまんないなあ、と思っていたくせに、いざ緊急事態宣言が解除されて、来週から学校再開となると、行くのやだなあ、と思い始めていた。
 父は都心の会社へ勤務を続けていた。せっかく通勤電車空いてたのに、また満員電車に戻っちゃうよ、と昨日、嘆いていた。母はリモートワークを続けていて、リビングのテーブルでオンライン会議中だ。「いや、ですからね、ですからそれは……」とパソコンに向かってぎゃんぎゃんまくしたてている。あおいは黙ってリビングの掃き出し窓を開け、庭へ出た。
 こんなとこに、こんな花があったっけ? と思いながら緑の小槍を眺めていると、「どうしたの?」と背後で母の声がした。
「この花……こんなのあったっけ?」振り向かずにあおいが訊き返すと、「ああそれ、燕子花ね。あおいの生まれ月に咲く花だからって、おじいちゃんが買ってきて植えてくれたんだよ」母が答えた。
 全然知らなかったことを聞かされて、あおいは急に緑の小槍に興味を持った。キッチンバサミをとってくると、てっぺんに固いつぼみを頂いた一本の茎を、根元に近いところでぷつんと切り取った。それをコップに挿して、ダイニングテーブルの上に置いてみた。
「どうしたんだ、これ」満員電車でぐったりして帰ってきた父が、テーブルの上のつぼみをみつけて尋ねた。あおいはなんとも答えなかった。「ひまなのよ、この子」母がくすっと笑ってつぶやいた。
 朝昼晩、あおいはテーブルの上のつぼみと向き合いながら食事をとった。テーブルの上に花が、しかもまだつぼみの花が一輪、ある。ただそれだけで食卓の風景が変わった気がした。今日かな、明日かな。あおいは花が開くのを心密かに待った。つぼみは次第に紫色を帯びて、膨らんでいくように見えた。ところが、あともうちょっとで開きそうになったとき、急に咲くのをやめてしまったかのように見えた。花の先端はいましもほころんでいるのに、力尽きてしまったのだろうか。
「枯れちゃったのかな」
 あおいのつぶやきを、キッチンのカウンターで食器洗いをしていた母が聞き留めた。
「咲くよ、きっと」
「どうしてそう思うの。枯れてるようにしか見えないよ」
「花はひらくとき、一番力を使うんだよ。ぐっと溜めて、あとは開くだけ。開くのは自然の力なんだから、大丈夫よ」
「なんでわかるの。花じゃないのに」
 あおいの問いに、母は笑った。
「だって、お母さん、あなたを産んだんだもん。その時と一緒だよ、たぶん」
 翌週、あおいの中学校生活が始まった。その朝、固かったつぼみをはらりと解いて花がひらいた。帰宅したあおいがみずみずしい紫の花に気づくのは、もうすぐのことだ。


原田マハ(はらだ・まは)
1962年東京都生まれ。2005年「カフーを待ちわびて」で日本ラブストーリー大賞を受賞し、デビュー。2012年『楽園のカンヴァス』で山本周五郎賞受賞。2017年『リーチ先生』で新田次郎文学賞受賞。他の著書に『暗幕のゲルニカ』、『たゆたえども沈まず』、『美しき愚かものたちのタブロー』など。最新作は『<あの絵>のまえで 』。

【近著】

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