〈4月15日〉 有栖川有栖

文字数 1,173文字

走りだせない日


 担当編集者の教えを受け、パソコンでビデオ通話ができるようになったので、さっそく東京と大阪に居ながらにしてウェブ打ち合わせをする。新作長編の構想がまとまっていない私に向け、心安い編集者は「頼みますよ、有栖川有栖先生」と、いつにない先生付けで激励だか叱咤だかを飛ばして画面から去った。
 焦る。焦って悶々とするうちに、今日が友人・火村英生の誕生日であることを思い出して、覚えたてのテクノロジーで祝いの言葉を伝えることにした。
「やっと文明の利器を覚えたのか、アリス。俺の誕生日よりそっちの方がめでたい」
 二十歳以来、十四年の付き合いだ。相変わらず私に対してだけは口が悪い。
 大学生の頃から京都の北白川の下宿で暮らす男は、母校の社会学部准教授となり、警察の捜査に協力することをフィールドワークとして研究を続けている。
「真面目な顔で言うな」と言ってから、友人の表情には微かな翳があるのに気づく。「……もしかして、そっちは不慣れなリモート授業に手こずってるか?」
「オンラインで講義を始めようとしたら、支障が出て全校的に中止になった。そんなことじゃなくて、七十代の婆ちゃんが心配なんだよ。この緊急事態下、俺は絶対、新型コロナウイルスに感染できない」
 店子としてお世話になっているのは、今や火村だけ。重責を感じるのも無理はない。
「警察から『先生、摩訶不思議な事件です!』と連絡が入っても、現場へ出られへんな。リモート探偵をするしかないか」
「やるさ。いつでもOKだ」
 そんな事態を心待ちにしているのか、犯罪学者は静かに微笑した。部屋にこもりっぱなしで腕が疼いているのかもしれない。
 通話を終えて、ふうと溜め息をつく。
 外出自粛のせいで公私とも予定が次々にキャンセルになり、執筆に専念できる絶好の環境が整ったのに、書けずにいるのがもどかしい。いつも渋滞している道からすべての車が消え、一直線に延びる高速道路を独り占めできるのに、エンジンが掛からずに立ち往生しているかのようだ。
 事件の報を待つ火村も運転席でステアリングを握ったまま、がら空きの前方をにらんでいるのだろうか? 走りたい、走らせろ、と焦燥に近いものを感じながら。
 そんな2020年4月15日。


有栖川有栖 (ありすがわ・ありす)
1959年大阪府生まれ。同志社大学法学部卒業。1989年『月光ゲーム Yの悲劇'88』でデビュー。 2003年『マレー鉄道の謎』で第56回日本推理作家協会賞、2008年『女王国の城』で第8回本格ミステリ大賞、2018年「火村英生」シリーズで第3回吉川英治文庫賞を受賞。本格ミステリ作家クラブ初代会長。

【近著】



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