〈6月13日〉 垣谷美雨

文字数 1,502文字

ニューノーマル


 ――君を見直したよ。我が社の救世主だ。
 課長からのメールを見て、僕は思わずガッツポーズをした。
 テレワークになってからというもの、僕の営業成績はぐんぐん伸びて、社内でトップに躍り出た。それまでは入社以来十五年間ほとんど最下位で、昇進も同期から後れを取っていた。熱意だけは誰にも負けないつもりだったけれど、なんせ口下手で上がり症だし、そのうえ下戸ときているから夜のつきあいも苦手だった。
 けれど、そんな僕の欠点は、ネット上では雲散霧消した。顧客とのビデオ会議では、直接対面していないせいか緊張しなかった。グラフやイラストを駆使して作った資料をメールで送ると、思いのほか好評で、予想以上に多くの取引先から問い合わせがあった。毎日のように性能についての突っ込んだ質問が寄せられたから、僕は一つ一つ誠実に答えて、資金繰りに関しても親身になって相談に乗った。
 僕がパソコンに向かう隣で、分散登校中の小二の健斗が漢字ドリルに励んでいる。
「お父さん、お仕事、楽しそうだね」
「まあな。やりがいがあるからね」
 テレワークならパワハラも強制的な飲み会もない。そもそも僕の仕事は、製品の良さをアピールして顧客に購入してもらうことであって、私生活を犠牲にして深夜まで上司や顧客の酒の相手をしたり、お世辞を連発して気に入られようと必死になったり、同情を買うために自分を貶めてみせることではないのだ。
 嬉しいことに、緊急事態宣言が解除されて以降も、テレワークを選択できるようになった。お陰で頭痛も胃痛もなくなって体調が良くなった。満員電車からも解放されたし、疲れたらゴロンと畳の上に寝転ぶ。そのまま昼寝をすれば、頭がスッキリして、次々とアイデアが湧いてくるし、関連書籍を読む時間も増えた。なんて効率がいいのだろう。
「お父さん、そろそろ散歩の時間だよ」
 初夏の青空のもと、人通りの少ない道を選んで健斗と並んで歩いた。交通量が減ったから大気が澄んでいる。何より健斗といろいろな話ができる幸せをかみしめていた。小さな公園に寄り、二人でサッカーをして汗を流した。
「なあ健斗、夕飯は卵かけご飯と野菜炒めだけでいいかな?」
「うん、いいよ」
 保健師の妻は残業続きで、ボロ雑巾のように疲れ果てて保健所から帰ってくる。妻に代わって家事全般をやるようになって、僕は初めて妻の不機嫌が理解できた。
「コンビニに寄って、お母さんの好きな抹茶アイスを買って帰ろう」
 そう言うと、健斗の顔がパッと輝いた。「僕はチョコ味のにする」
 ワーク・ライフ・バランスなんて、絵に描いた餅だと思ってきた。残業が多すぎて、疲れが取れる瞬間さえなくて、家庭を大切にできる日など永遠に来ないと思っていた。それなのに、新型コロナウイルスは、十年かけて進む世界を、この数ヵ月で達成してしまった。
 もう元には戻れない。
 絶対に戻りたくない。
「帰ったら一緒に洗濯物を畳もうぜ。手伝ってくれるよな?」
「僕ね、両端をこうやってピシッとしてから畳むの、上手なんだよ」
 宙を切る健斗の小さな手に、幸せ色した夕陽が当たっていた。


垣谷美雨(かきや・みう)
1959年、兵庫県生まれ。明治大学文学部卒。2005年、「竜巻ガール」で小説推理新人賞を受賞しデビュー。著書に『リセット』『結婚相手は抽選で』『ニュータウンは黄昏れて』『夫のカノジョ』『あなたの人生、片づけます』『老後の資金がありません』『四十歳、未婚出産』などがある。

【近著】

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