〈5月29日〉 垣根涼介

文字数 1,609文字

子供の家出


 この日は、机に終日かじりついて小説を書いていた。月末に連載の〆切があった。気がつけば、COVID-19の非常事態宣言は、四、五日前に解除されていた。
 私は、小説を書くのが遅い。物書きになって二十年ほどが経つが、情けないことにこの執筆スピードには、一向に改善が見られない。
 年の平均執筆ペースは、原稿用紙換算で六百から七百枚という感じだろうか。六百枚の小説なら年に一冊、千二百枚という分量の小説が出来上がるまでには二年かかってしまう。
 かつて、この執筆ペースで先輩の作家からよく注意されることがあった。
「もっと書け。いっぱい書け。とにかく書け」と。
 今も、たまにたしなめられる。少し前に、年長の作家から笑いながらこう言われた。
「この前、Aさんに会ったら言ってたぞ。『垣根は、全然書いてないじゃないかっ』って」
 これには返す言葉もなく、仕方なしに苦笑するしかなかった。

 個人的には、小説を書くという行為は、将棋の指し手に似たものがあると思っている。初手に、どの駒をどんなふうに動かすのか。それは感覚の世界でもあり、先々の展開をある程度見越した上での計算でもある。それを受け、次の打つ手でもまた迷う。自分が思い描いているラインに、なんとか確実に乗せていこうと試行錯誤する。
 一番泣きたくなるのは、この初手から前半に続く布石だ。文字を置くたびに一時間に三十回ほどはため息をつき、(この感じは、ちょっと自分が思っている方向と違うな……)などと思い悩む。自己嫌悪がマックスになるのも、たいがいはこの時期だ。
 (あげ)()、たまに逃げ出す。クルマに乗ったり、泳ぎに行ったり、散歩に出かけたりする。しかし所詮は『子供の家出』だ。遊んでいるうちに、次第にやりかけた仕事が気になってくる。戻ってくる場所は、結局は執筆デスクの前しかない。仕事で出来たストレスは、仕事で解消するしかない。
 それでもこの気晴らしは、私にとっては束の間の救いになっている。カッカしている脳味噌も、いくぶんか冷静になる。
 この自粛中で辛かったのは、それらの外出がまったく出来なくなったということだ。しばらくたった今も散歩に出るくらいしかできないが、それだけでも充分に違う。

 ところで、この非常事態宣言の期間中に、気づいたことが一つある。
 私は、見通しの利く部屋が好きだ。籠りがちな仕事なので、パソコンから顔を上げた時くらいは、ぼんやりと遠くを眺めたい。窓の外の風景を見て、多少はすっきりしたい。これも一瞬の気晴らしだろうが、眼精疲労を予防する意味もある。
 そんなある日、気づいたのだ。
 いつものように、港や、海の上にかかる橋や、はるか先の水平線上に半島が見える。
 ―――あれ?
 橋の上を行き交うクルマが、今日はやけにくっきりと見える……。先の景色にしてもそうだ。いつもはぼんやりと霞がかかったようにしか見えない半島も、その海岸沿いにある工場群の煙突まで、一本々々がはっきりと見て取れる。
 人々の生産活動や移動の自粛により、都市部の大気が明らかに澄んできていた。おそらくは地球規模でもそうなっている。
 物事は、常に引き換えになっているものがあるのだと感じる。


垣根涼介(かきね・りょうすけ)
1966年、長崎県生まれ。筑波大学卒業。2000年に『午前三時のルースター』でサントリーミステリー大賞と読者賞をダブル受賞してデビュー。2004年『ワイルド・ソウル』で大藪春彦賞、吉川英治文学新人賞、日本推理作家協会賞の3冠受賞に輝く。2005年『君たちに明日はない』で山本周五郎賞、2016年『室町無頼』で「本屋が選ぶ時代小説大賞」を受賞。他の著書に『光秀の定理』『信長の原理』などがある。

【近著】

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