〈4月14日〉 深水黎一郎
文字数 1,314文字
2020年4月14日の大癋見警部
大癋見 警部が外出しようとしているのを目の端で捉えた海埜 () 警部補は、慌てて後を追いかけた。
「警部、どちらへ行かれるのですか?」
一課の大部屋の出口付近でつかまえることに成功した。ソーシャルディスタンスを考慮して、少し離れたところに立つ。まあ元々、あまり近くに寄りたい人ではない。
「本屋だ」
いちおうマスクはしているが、顔がでかすぎるためか、ものすごーく小さく見える。
「本屋? 何でまた?」
「ワシの活躍を記録した二冊目の本『大癋見警部の事件簿リターンズ 大癋見vs.芸術探偵』の光文社文庫版が、本日発売なのだ」
「自粛して下さい。書店に並んでいるところを見たい気持ちはわかりますが、それは不要不急の外出に当たります」
海埜が窘めると、警部はぎろりと目を剝いた。
「うるせえ! ワシにとっては必要大至急だ! それにそもそもワシは、インフルエンザにもかかったことがない。ウイルスの方が逃げるんだ、わはははは」
「駄目です。たとえ自分は発症しなくても、周囲に広める危険がありますから、外出は自粛しましょう」
「てめえこら! 人を中間宿主みたいに言いやがって!」
あいかわらずの傍若無人。中間宿主という言葉の理解も間違っているが、今はそれどころではない。歩くクラスターのようなこの人を、街に解き放ってはいけない。
「駄目です。本はなくなりません」
「いや、なくなるんだなあ、これが」警部は駄々をこねた。「前作も、あっという間に書店の店先から消えた。大好評で売り切れたのか、返本になったのかは知らんが」
「ですが、どっちにしても緊急事態宣言以降、都内の大型書店はどこも休業中ですよ」
「くそ、そうだった!」
本当に忘れていたらしく、地団駄を踏む。
「間の悪い時に文庫化しちまったなあ。緊急事態宣言が明ける頃には、もう新刊扱いじゃなくなってるじゃないか!」
「それは本によると思いますが……」
「畜生、不便でしょうがないな。外出できないとなると、丑の刻参りにも、スイカどろぼうにも行けないじゃないか!」
そういう誰にも会わないのはまだ良いですけど、とうっかり言いかけて、慌てて口を噤んだ。いやいや良くない。何だか善悪の基準がおかしくなっている。
「いつでも好きな時に好きなところへ行ける日常が、早く戻るといいな」
「そ、そうですね」
珍しくまともな言葉に一瞬自分の耳を疑ったが、海埜はこの係に配属されて以来、初めて上司の言葉に心から同意した。
深水黎一郎(ふかみ・れいいちろう)
一九六三年、山形県生まれ。二〇〇七年に『ウルチモ・トルッコ』で第三十六回メフィスト賞を受賞してデビュー。二〇一一年に短篇『人間の尊厳と八〇〇メートル』で第六十四回日本推理作家協会賞を受賞。二〇一五年刊『ミステリー・アリーナ』が同年の「本格ミステリ・ベスト10」で第一位に。近著に『倒叙の四季 破られた完全犯罪』『虚像のアラベスク』『第四の暴力』『犯人選挙』などがある。
【近著】
「警部、どちらへ行かれるのですか?」
一課の大部屋の出口付近でつかまえることに成功した。ソーシャルディスタンスを考慮して、少し離れたところに立つ。まあ元々、あまり近くに寄りたい人ではない。
「本屋だ」
いちおうマスクはしているが、顔がでかすぎるためか、ものすごーく小さく見える。
「本屋? 何でまた?」
「ワシの活躍を記録した二冊目の本『大癋見警部の事件簿リターンズ 大癋見vs.芸術探偵』の光文社文庫版が、本日発売なのだ」
「自粛して下さい。書店に並んでいるところを見たい気持ちはわかりますが、それは不要不急の外出に当たります」
海埜が窘めると、警部はぎろりと目を剝いた。
「うるせえ! ワシにとっては必要大至急だ! それにそもそもワシは、インフルエンザにもかかったことがない。ウイルスの方が逃げるんだ、わはははは」
「駄目です。たとえ自分は発症しなくても、周囲に広める危険がありますから、外出は自粛しましょう」
「てめえこら! 人を中間宿主みたいに言いやがって!」
あいかわらずの傍若無人。中間宿主という言葉の理解も間違っているが、今はそれどころではない。歩くクラスターのようなこの人を、街に解き放ってはいけない。
「駄目です。本はなくなりません」
「いや、なくなるんだなあ、これが」警部は駄々をこねた。「前作も、あっという間に書店の店先から消えた。大好評で売り切れたのか、返本になったのかは知らんが」
「ですが、どっちにしても緊急事態宣言以降、都内の大型書店はどこも休業中ですよ」
「くそ、そうだった!」
本当に忘れていたらしく、地団駄を踏む。
「間の悪い時に文庫化しちまったなあ。緊急事態宣言が明ける頃には、もう新刊扱いじゃなくなってるじゃないか!」
「それは本によると思いますが……」
「畜生、不便でしょうがないな。外出できないとなると、丑の刻参りにも、スイカどろぼうにも行けないじゃないか!」
そういう誰にも会わないのはまだ良いですけど、とうっかり言いかけて、慌てて口を噤んだ。いやいや良くない。何だか善悪の基準がおかしくなっている。
「いつでも好きな時に好きなところへ行ける日常が、早く戻るといいな」
「そ、そうですね」
珍しくまともな言葉に一瞬自分の耳を疑ったが、海埜はこの係に配属されて以来、初めて上司の言葉に心から同意した。
深水黎一郎(ふかみ・れいいちろう)
一九六三年、山形県生まれ。二〇〇七年に『ウルチモ・トルッコ』で第三十六回メフィスト賞を受賞してデビュー。二〇一一年に短篇『人間の尊厳と八〇〇メートル』で第六十四回日本推理作家協会賞を受賞。二〇一五年刊『ミステリー・アリーナ』が同年の「本格ミステリ・ベスト10」で第一位に。近著に『倒叙の四季 破られた完全犯罪』『虚像のアラベスク』『第四の暴力』『犯人選挙』などがある。
【近著】
