〈6月18日〉 井上夢人

文字数 1,328文字

私は融合する


 68日だ。そう、68日目だ。
 4年半勤めていた居酒屋を馘首(くび)になったのが4月11日。その翌日から数えて、4月の残りは19日。5月は31日あって、今日は6月18日だから、19+31+18=68日ってことになる。計算する頭は、まだ残っている。
 あの日、松浦(まつうら)のオヤジから「もう来なくていい」と言われた。「給料半分でいいです。働かせてくんないすか?」と言うと、オヤジは「わかってくれ」と(しか)めっ(つら)を伏せた。これが精一杯だと渡された封筒には五千円札が1枚入っていた。
 カップラーメンを買いアパートに帰ると、ドアに鍵を掛けた。それが最後だった。それから部屋を出ていない。鍵は靴脱ぎの上に置いたままだ。今日が68日目。
 部屋ではずっとベッドの上にいた。ベッドの上で壁に(もた)れ、リモコンでテレビのザッピングをやる。何時間でもチャンネルをグルグル替え続ける。トイレに立つときはベッドから下りるが、用を済ませるとまたベッドに戻る。
 ベッドから下りられなくなったのは3日目だった。腰が上がらなくなった。ずっと座っていたから腰が固まってしまったのだろうと、軽く考えた。しかしそのうちに、そうじゃないことに気がついた。
 足がまるで動かなかった。見ると布団に足が潜り込んでいる。布団の中に突っ込んでるんじゃなくて、(ふく)(はぎ)から下が布団に吸収されているような感じなのだ。足だけじゃない。触って確かめると、尻もベッドの縁と布団に呑み込まれているようだし、背中は(けん)甲骨(こうこつ)の辺り全体が壁に埋まり込んでしまっている。
 こいつは困ったことになったと思ったが、不思議と焦ってはいなかった。動けないから飯も食えない(はず)なのに、いつまで経っても腹は減らなかった。どうやら、同化したベッドや壁から、養分が送られてきているらしい。排泄も同様で、壁や床が引き受けてくれている。植物みたいだと、ちょっと楽しくなった。植物人間ってことじゃん。
 さらに10日もすると、仲間の声が感じられるようになった。自分だけじゃなく、どうやらこのアパートは大勢の人たちの融合体だったらしい。彼らと会話が出来るわけじゃないが、気分は共有できる。
 今日で68日目だ。もう身体のほとんどが部屋と融合してしまった。右手などはリモコンを持ったままベッドと同化している。
 部屋の外で大家の声が聞こえる。「ね? テレビの音は聞こえてますでしょ。いるとは思うんですよ」
 やがて鍵を開ける音がした。


井上夢人(いのうえ・ゆめひと)
1950年生まれ。‘82年、徳山諄一との共作筆名・岡嶋二人として『焦茶色のパステル』で第28回江戸川乱歩賞を受賞。’86年、日本推理作家協会賞、‘89年、吉川英治文学新人賞を受賞後、『クラインの壺』の刊行を最後にコンビを解消。‛92年、『ダレカガナカニイル…』でソロデビュー。以降、『メドゥサ、鏡をごらん』『オルファクトグラム』『ラバー・ソウル』などの意欲作を刊行。

【近著】

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