〈6月26日〉 宮内悠介

文字数 1,253文字

囲いを越えろ


 スターターピストルが鳴った。
 ジョンは地面を蹴り、最初のハードルに向けて加速をはじめた。よし、と心中でつぶやく。感触はいい。気持ちは()いでいるし、競技に集中できている。まず最初の一台、ついで二台目のハードルを飛び越えた。
 二ヵ月後のオリンピックに向けた、四〇〇メートルハードルの代表選考レースだ。オリンピックへの出場を望むなら、今日、いまここで結果を出さなければならない。
 この日のレースに至るまでには、さまざまなことがあった。
 まず何よりも、世界を覆い尽くしたあの疫病だ。悪夢のような第三波がやってきたのが、去年の秋のこと。病はいまだ世界各地でくすぶり、収束したとは誰にも言えない。
 そして、前回のオリンピックは中止。
 今年、ジョンは二十七歳を迎えた。年齢から考えると、これが大舞台に臨む最後のチャンスかもしれない。一人のアスリートとして、世界になんらかの爪跡を残せるかもしれない、その最後の機会。
 五台目、六台目とハードルを越える。
 すでに心臓は潰れそうだ。
 四〇〇メートルは、人間が全力疾走できるかできないかの、ぎりぎりの長さになる。いわば、究極の無酸素運動。最高に苦しく──それでいて、最高に気持ちのいい競技だ。
 スピードが落ちてくるのが自分でもわかる。
 だんだんと、ハードルが高く見えてくる。が、このときだ。ジョンの身体の、なんらかのスイッチが入った。苦痛が、快楽へと反転する。静かだ。あたかも、自分一人しか走っていないかのような。
 七台目。そして、八台目。
 ハードルとは塀や柵を意味する。最初は、羊のための囲いが競技に用いられたそうだ。越えろ、と念じた。そうだ、越えろ。いま、自分たちを取り巻くあらゆる囲いを。
 九台目を越え、最後の十台目のハードルを越える。
 ゴールはもう目の前だ。もう、ジョンにはわかっていた。いまのところ、ミスらしいミスはない。あとは、ゴールへ走りこむだけ。自分は、世界最速の男になったのだ。
 ──ジョン・ケリー・ノートン。
 一八九三年生、のちのコロンビア大教授。スペイン風邪が世界的に流行するさなかの一九二〇年六月二十六日、アントワープオリンピックの代表選考レースにて、四〇〇メートルハードルで五四・二秒の世界記録を樹立した。


宮内悠介(みやうち・ゆうすけ)
1979年東京都生まれ。早稲田大学第一文学部卒。2010年、「盤上の夜」で第1回創元SF短編賞選考委員特別賞(山田正紀賞)を受賞しデビュー。『盤上の夜』で第33回日本SF大賞、『ヨハネスブルグの天使たち』で第34回日本SF大賞特別賞、『彼女がエスパーだったころ』で第38回吉川英治文学新人賞、『カブールの園』で第30回三島由紀夫賞、『あとは野となれ大和撫子』で第49回星雲賞を受賞。他著に『遠い他国でひょんと死ぬるや』『黄色い夜』など多数。

【近著】

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