〈4月26日〉 春原いずみ

文字数 985文字

その日が来るまで


 家に帰ると、神城尊はまず風呂場に直行する。いつもの恋人と三匹の犬たちの出迎えもなしだ。脱いだ服はすぐにビニール袋に密封し、シャワーで頭の先から足の先まで洗う。
「お帰りなさい」
 風呂場の外から、かけがえのないパートナーである筧深春の声が聞こえた。
「ごはん、できてます。今日は先生の大好きな豚の生姜焼きですよ」
 すべてが変わってしまった。今、命を繋ぐ聖生会中央病院付属救命救急センターは感染症の最前線に立たされている。防護のための資材はあっという間に底をつき、医療者は感染に怯えながら、運を天に任せるような感覚で、現場に立ち続けている。
「お、美味そうだな」
 髪を拭きながら、茶の間に落ち着くとそろそろと3匹の柴犬たちが寄ってきた。
「ただーいま」
 可愛い犬たちを順番に撫でてやってから、筧が差し出してくれたおしぼりで手を拭き、箸を手に取る。
「……うん、柔らかくて美味い」
 少し味付けが濃いめなのは、神城が疲れていることを配慮してだろう。同じ職場のナースである筧も同じように疲れているに違いないのに、彼はいつものように、家を整え、神城が安らげるようにして、迎えてくれる。
「……もう、消毒用アルコールが底をつきそうなので、患者さんに使用する以外は、昨日から工業用アルコールになりました」
 筧がぽつりと言った。
「いつまで……続くんでしょうね」
「そうだな……」
 2人はそのまま静かに食事をした。食べなければもたない。眠らなければもたない。何としても、頑張らなければならない。
「あ、そうだ……」
 食事を終えて、ふと筧が言った。
「藤枝さんから、いいものをいただきました。待っててくださいね」
 5分ほどで台所から戻ってきた筧が持っていたのは、おそろいのマグカップだった。
「甘い……」
 2人で向かい合って、そっとすすると疲れた身体に染みるチョコレートの甘さ。
「ショコラショーというんだそうです」
 一瞬でいい。この疲れがとれてほしい。
 そう祈りながら、2人は甘いショコラショーを少しずつ少しずつ飲んだのだった。


春原いずみ(すのはら・いずみ)
新潟県出身。双子座のA型。医療職の傍らBL作品の執筆を行う。

【近著】



 

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