〈5月28日〉 あさのあつこ

文字数 1,277文字

亀の恩返し


 五月二十八日、快晴。ほぼ無風。
本当にいい天気だ。空は晴れ上がり、風は乾いて気持ちがいい。こういうのを五月晴と言うのだろうか。土手の草原に寝転んで、おれはさっきからずっと空を見上げている。空も風も草の香りも気持ちいいけれど、人間の世界はグダグダだ。
 今朝、親父の広げていた新聞の一面は、京アニ放火の容疑者とコロナ対策の補正予算と九月入学見送りの記事で埋まっていた。どれも爽やかさとは程遠い。
 ため息が零れた。このところ、ため息ばかり吐いている気がする。我ながら情けないけど、しかたない。知らぬ間に零れてしまうのだから。
 おれは小学三年生で野球を始めた。それから、十八の年までずっと野球一筋だ。「時代はサッカーのもんでしょ」とか「バスケが今のトレンドだぜ。野球、旧すぎ」とかいうやつもいたけれど、おれは時代とかトレンドとか関係なく野球が好きだった。今年の一月、選抜出場決定の報せが届いたとき、冗談でなく死ぬかと思った。心臓が止まるほど嬉しかったのだ。高校球児にとって甲子園は特別の場所だ。その土を踏める。人生最大の幸福感ってやつを味わった。家族も学校も地域も沸き立ったけれど、おれの心の中が一番歓喜の嵐に見舞われていたと思う。それが……中止だ。選抜も夏の大会も中止。おれたち三年生は甲子園に挑む機会さえ失った。どうしようもない。ウィルス相手に怒りや嘆きをぶつけることはできない。
 ああ、だけど、やっとここまで来たのに。どこまでも碧い空を見上げ、またため息を吐く。
「恩返しをしよう」耳元で囁きが聞こえた……気がした。起き上がる。草むらがかさこさ動いた。目を凝らす。亀がいた。何の変哲もないクサガメだ。その亀が首を伸ばし、おれを見詰めてくる。え? まさか。唐突に思い出す。ちょうど一年前、この土手をランニングしていた。そのとき、草の中でもがいている亀を見つけたのだ。足にビニールの紐が絡まり動けなくなっていた。で、おれはその紐をほどいて、川の中に返してやったのだ。それだけだった。いや、違う。川に放したとき亀が振り返った。
「おまえに恩返しする」。頭の中でそんな声が響いた。何だ今のと驚いたけれどすぐに忘れた。川の音を聞き間違えたのだと自分で納得していた。それしか考えられなかったから。
「甲子園で試合をしたいんだな。その願いを叶える」。やはり、頭の中で聞こえる。亀がにやりと笑った。それから、ゆっくりと草むらに消えていった。
 甲子園で試合ができる? まさか、そんな……。五月の陽光と風の中、おれは息を詰めて座っていた。


あさのあつこ
1954年、岡山県生まれ。青山学院大学卒業後、小学校講師を経て、1991年に『ほたる館物語』で作家デビュー。『バッテリー』で野間児童文芸賞、『バッテリーⅡ』で日本児童文学者協会賞、「バッテリー」シリーズで小学館児童出版文化賞、『たまゆら』で島清恋愛文学賞を受賞。

【近著】

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