〈5月12日〉 椹野道流

文字数 1,279文字

 今日は、医療従事者なら忘れはしない「看護の日」、または「ナイチンゲール・デー」だ。
 ちょうど200年前の今日、フローレンス・ナイチンゲールは、この世に生を受けた。
 彼女は言うまでもなく「看護の祖」で、クリミア戦争に従軍し、前線の病院で傷病兵たちに日夜を問わず尽くした「ランプの貴婦人」である。
 ……と、その程度の知識しか持ちあわせていなかった私が彼女に興味を持ったのは、20代半ば、イギリス留学中のことだった。
 週末にロンドンに出掛け、広大なハイド・パーク近辺をぶらぶらと散歩していたとき、目の前の建物のエントランス脇の壁に、青くて丸いプレートが嵌め込まれていた。
 それは「ブルー・プラーク」と呼ばれる著名人ゆかりの場所を示す標識で、そこでナイチンゲールは暮らし、亡くなったと記されていた。
 残念ながら、彼女が実際に住んだ家はすでに取り壊され、私の目の前にあったのは新たに建てられたアパートメントだったけれど、あの人が、かつてはここに……と、初めてナイチンゲールをとても身近に感じた。
 実際、彼女が看護師として活躍したのはわずか3年だけ。
 それが、帰宅して改めてナイチンゲールについて調べた私が知り、驚いたことだった。
 戦地から戻った彼女は、戦時中の病院や傷病兵についての資料を集め、分析し、その結果を誰にでもわかるようにグラフで表示する方法を編み出した。
 彼女が作成した膨大な数の報告書や提案書によって、病院の衛生環境が大胆に改善され、看護の質が飛躍的に高められた。
 彼女は戦場で救ったより遥かに多くの人の命を、データとサイエンスで救ったのである。
 彼女が分析した資料には、勿論、自分自身が戦地で行った看護活動の結果も含まれていたはずだ。
 自分が心身を削った活動に含まれていた、無意味だったこと、やるべきだったのにやらなかったこと、むしろ有害であったことをも、きっと彼女は冷徹に見据えたのだろうと思う。
 今、この難儀な日々を医師として過ごしながら、事態が落ち着いたとき、はたして自分にはナイチンゲールのような「厳しい反省会」ができるかどうか……ふと、そんなことを考えている。
 たぶん、無理だと思う。私はきっと、「ああ、すんごく大変だった」とぼやきながら、少しだけ変化した日常に戻っていくだろう。
 そして、再び非常勤講師として看護学校の門をくぐるとき、ちょっとだけ後ろめたい気持ちで、ナイチンゲールの石膏像の前を通り過ぎるに違いない。


椹野道流(ふしの・みちる) 
2月25日生まれ。魚座のO型。法医学教室勤務のほか、医療系専門学校教員などの仕事に携わる。1996年第3回ホワイトハート大賞エンタテインメント小説部門に「人買奇談」で佳作入選しデビュー。その後「奇談」シリーズや「鬼籍通覧」シリーズ、「最後の晩ごはん」シリーズなど人気シリーズを多く執筆する。その他の著書に『男ふたりで12ヶ月おやつ』『ハケン飯友』など多数。

【近著】

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