〈5月7日〉 米澤穂信

文字数 1,400文字

ありがとう、コーヒーをどうぞ


 玄関の鏡でネクタイの角度を整え、行ってくるよと声をかけると、妻は気づかわしげに眉を寄せた。
「気をつけて行ってきて」
「大丈夫、充分に気をつけるよ」
「鍵はわたしが閉めるからね」
 頼むよと言って外に出ると、背後で重い音を立てて錠が下りた。私は自宅を、裏手へとまわりこむ。
 裏庭に面したテラス窓は、あらかじめ鍵が開けてある。靴を脱いで中に入れば、そこはささやかながら一箇の書斎だ。文机のパソコンの電源を入れ、ペットボトルの水とポットで湯を沸かす。淹れたコーヒーを、古道具屋で買った一点物、お気に入りのマグカップに注いで口をつけ、ほうと一息。それで今日の仕事が始まる。
 私の仕事は作家であり、この書斎が、私の本当の仕事場だ。さる複雑な事情があって妻には自分の仕事を打ち明けられなくて、出勤するふりだけをして毎日自宅に忍び込んでいる。妻は私の書斎に入らないので露見する心配はない。今回のことで妻が在宅勤務になってからはトイレだけが厄介だが、妻が仕事をする二階まで、水音は届かないようだ。
 長くなってきた日も暮れかけた頃、雨の音を聞いた。見れば、裏庭に洗濯物が干しっぱなしだ。私は手荒れがひどいので、共稼ぎながら洗い物や洗濯は妻に任せきりにしている。間の悪いことに、妻はさっき出かけてしまった。
 本日三杯目のコーヒーを文机に置いて、脱衣室から大きめのバスタオルを持ってくる。庭に下りてバスタオルを洗濯物にかけ、しばしそのまま、春の小雨がこぼれてくる空を見上げていた。雨はいつでも降るし、どんな時でも季節は巡るものだ。玄関の方からばたばたと足音が聞こえたのでバスタオルを畳んで書斎に戻ると、カーテンの向こうから、「よかった。あんまり濡れてない」という安堵の声が聞こえてきた。
 時刻もちょうどいいのでそのままスーツに着替え、妻が洗濯物を取り込むのを見計らって、裏庭に下りる。玄関のドアを開けてただいまと声をかけると、妻が小走りに迎えてくれる。
「お帰りなさい。雨、大丈夫だった?」
「ありがとう、大丈夫だよ。すぐに晴れそうだ」
 いま着たばかりのスーツを二階の寝室で脱ぎ、部屋着に着替えて一階に戻る。自分の担当の掃除機がけを終えると、妻がコーヒーを淹れて持ってきてくれた。
「今日もお疲れさま。ありがとう」
「お互いにね」
 そう言って私は、お気に入りのマグカップに口をつける。そっと妻の横顔を盗み見るが、私の秘密に気づいた様子はまったくない。妻には多くの美点があるが、少々鈍感でもある。今日、宣言が延長された。一つ屋根の下での奇妙な在宅勤務は、もう少し続きそうだ。


米澤穂信(よねざわ・ほのぶ )
1978年岐阜県生まれ。2001年『氷菓』で第5回角川学園小説大賞奨励賞(ヤングミステリー&ホラー部門)を受賞してデビュー。青春小説としての魅力と謎解きの面白さを兼ね備えた作風で注目され、『春期限定いちごタルト事件』などの作品で人気作家の地位を確立する。2011年『折れた竜骨』で第64回日本推理作家協会賞、2014年『満願』で第27回山本周五郎賞を受賞。他の著書に『さよなら妖精』『犬はどこだ』『インシテミル』『追想五断章』『リカーシブル』などがある。

【近著】

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