〈6月15日〉 川越宗一

文字数 1,421文字

神の手を離れて


「しまったなあ――」
 神は下界を見下ろして呟いた。
 この世界を創った日々を懐かしく思い返す。あのころは楽しかった。困難もあったが、おおむねは自分の思い通りに海が広がり、山が隆起し、生命があふれた。神にとって最大の、そして会心の事業であり、やり切った時はうっすら涙ぐんだ。
 いっぽうで完成を急いだがために、わりかし行き当たりばったりになってしまったことも否めない。適当な仕事をしたつもりはないし、もし非難されようものなら「黙れ冷笑主義者め」と怒鳴りつけるだろうが、できあがった個々がどのように関連し、総体として世界がいかなる機序でうごめくのか、創った神にもわからなかった。
 大陸がゆっくり動いていると知った時は「そんなふうにしたっけ」とびっくりしたし、巨大な地震が山を崩すと「え、なんで」と声に出してしまった。生命が環境に適応しながら増えていくさまはとても楽しかったから、隕石の衝突が大絶滅を引き起こしたときは「誰がやった!」と地団駄を踏んだ。
 神は、わからないなりに世界に手を入れることもできた。だがしなかった。こちらをいじればあちらがおかしくなる、という事態を避けたかったし、成り行きを見守ることも創造の一過程かもしれぬと考え、ただ世界を眺め続けた。
 そのうち「万物の霊長」とうそぶく生命種が地球に広がっていった。彼らが月を目掛けて飛ばしたものにぶつかりそうになったときは辟易したし、芋のデンプンを球状に整形して半発酵させた茶の煮だし汁と牛の乳を混ぜた液体に沈める食べ物とも飲み物ともつかない何かには「うわおいしそう」とつい唾を飲んだ。
 神はいま、その「万物の霊長」が造った街の片隅を凝視している。彼らの言葉でいえば、そこには小さな病院があって、外来受診者から感染症の患者が出たため診療を取りやめている。無人の受付でFAXがガビーと唸り、「燃やすぞ」などと書かれた紙を吐き出す。
「しまったなあ――」
 謂われなき嫌がらせを見た神は、再び呟く。こんな世界を創ったつもりは、神には毛頭なかったのだ。
 唇を噛みながら目を移す。診療所の外壁には「つぶれろ」「ここが感染源」などと書いた紙を貼られている。そこを、よちよち歩く幼子を間に挟んだ夫婦が通りがかった。
 妻が貼り紙を指差すと、夫は頷いた。マスクをした二人は憤然とした目つきで病院の壁に爪を立て、紙の端っこから剥がしていく。
「帰らないの?」
 子が舌足らずな口調で尋ねる。夫は振り向かず「ちょっと待ってな」とだけ答えて、めくれた紙の端を慎重に引っ張っている。その硬い雰囲気におびえたのか顔を歪めだした子を、「パパはこういうのが嫌いなの」といいながら、すでに一枚剥がし終えた母が抱き上げた。
「この病院じゃないけど、あんたも生まれるときにはお医者さんのお世話になってるんだよ」
 神は少しだけ、けれど確かに、安堵した。自分の手で創り、すぐにその手を離れてしまった世界のこれからに。


川越宗一(かわごえ・そういち)
1978年鹿児島県生まれ、大阪府出身。龍谷大学文学部史学科中退。2018年『天地に燦たり』で第25回松本清張賞を受賞しデビュー。19年8月刊行の『熱源』で第9回本屋が選ぶ時代小説大賞、第2回ほんま大賞、第162回直木賞を受賞する。

【近著】

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